第一章 生と死の狭間で

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「奥の部屋だ。もう、取上婆(とりあげばあ)には来てもらってる」 待ち構えていたトキの亭主――金吉(かねきち)は、早口でリセにそう告げた。  町医者を呼ぶよりも産婆を呼ぶのが世間の(なら)いにある。 「――頼んます」 藁に縋る心地で金吉はリセに頭を下げた。 その様子からして、金吉にもまずい状況であることは分かっていると知る。 「湯を沸かしてありますか?」 「ああ、今、近所の女たちが……」 炊事場に向かって目を向けた。 「沸いた分から桶に入れて、運んでください。それに綺麗な布地もありったけ」 出産は大事だ。 大抵は近隣の女が総出になって事に当たるのだ。 「町医者のリセです。入ります」  リセは辰之助の指す部屋に向かって声を張ると同時に、許しを待たずに押し入った。 「医者なんてお呼びじゃないよ。このままじゃ葬儀屋になりそうだ」 リセを見ぬままに、老齢の産婆が表情を強張らせて無慈悲なことを告げる。 「早産の上に逆子……臍の緒が絡んじまってるのか梃子でも出てこない」 難産での致死率は驚くほど高い。 母子ともに非常に危うい状態にある。 苦しそうにトキは涙しながら、息も絶え絶えに訴えた。 「セ……おリセさんっ!ああぁ、くぅっ」 陣痛はあるのに子がまるで出ようとしない。 「おトキさん、息を止めてはダメだ。子に空気を送れ。すぅ、はぁ、すぅ、はぁ。出来るな?」 ゆっくりと、それでいて落ち着いたリセの声音に、トキの方も幾分落ち着いた。 すぅ、はぁ、すぅ、はぁと、リセの声に合わせて繰り返す。 「そう、流石だ。上手いものだ。おトキさん、腹の子はこのままでは死んでしまう。生かせるか死んじまうかはおトキさんの肝っ玉次第、天命次第。腹を割いて取り上げるしかない」 この頃、蘭方医を知る者は少ない。 おそらく医師でさえその数は殿上人の数ほどもない。 勿論、腹を割いて赤子を取り出した成功事例はこの国では未だ聞かなかった。 目を剥いたのはトキ本人だけでなく、産婆も同じだ。 「そ、そげなこと、で、出来る筈もねぇ!!!」 「殺す気か!?」と、トキに代わって産婆は声を荒げた。 「では、他に方法を知りますか?神頼みしたところで無駄だと知るほどには、あなたとて取り上げて来たでしょう?」 葬儀屋を呼べと言ったばかりの産婆は、苦虫を噛み潰した顔で押し黙った。 リセはトキに向き直った。 「このままでは二人とも死ぬ。おトキさん、こんな時の為に私はよく切れる刃を金吉さんに頼んでおいたのです」 蘭方医ではメスと呼ばれる小さな薄い刃を見せた。 「腹の肉は三層に分かれている。その三つを割いて赤子と繋いでる盤を出したら、その後は傷を縫って塞ぐ。大事な臓器や血管さえ傷つけなければ人はそう簡単に死にはしない。苦肉の策だが二人が生き残る術は他にない」 トキはリセの毅然とした目に、己の命と、腹の子の命を預かる覚悟があることを知る。 薄い刃――それは夫が妻を想って研磨したものだ。 「そ、それしかないならやっちまって!!!」 陣痛の痛みでトキは顔を鬼のように歪めながらもリセに言い放った。    痛みを和らげる薬草もあるにはあるが、処方している時間も無く、思うような効果があるとも思えなかった。 リセは意を決めて、トキに告げる。 「死ぬほどの痛みだ。どうか、耐え抜いて」
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