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それは沈丁花の香り漂う、澄んだ月の明るい夜だった。
ようやくその時が訪れ、リセは期待に胸を膨らませていた。
「では、よろしくお願いします」
リセは、畏まって頭を下げた。
「リセ、今更なことを言うが、良いか?」
翡翠色の瞳が重々しくリセを見つめてくる。
リセも見つめ返して、是として受け止めた。
だというのに、少しばかりきまりが悪そうに浩竜は目を逸らしてしまう。
「?」
リセの差し出してきた書物に目を落とし、浩竜はやがて大きく息を吐いた。
「俺は言葉を解してはいるが、文字は読めない」
衝撃的な一言に、リセは半口を開けたまま固まった。
口から魂が出るとはこのことである。
「俺の祖父はこの国の出だからな、こちらの国の言葉も文字もある程度を解してはいるが、ラテン語はほんの僅かばかりだ」
その国の言葉を耳に馴染ませていれば、赤子でさえおのずと言葉を話せるようになるが、確かに識字となれば勝手が違うだろう。
「お前、俺が家で大人しく勉学に励んでいるような学者にでも見えたのか?」
びっちりと記された墨の文字に、浩竜は眉根を寄せ、諦めたように書を閉じた。そんな浩竜を眺めて、リセは力なく首を横に振った。
浩竜に聡明さは感じられても、筆をすき好んで持つような学者気質では間違っても無いだろう。悠然と風を受け止め、海原を相手にしている彼の姿しか、リセとて想像できなかった。
「学ぶことに近道はないということね……」
リセは綴られた文字を指先でなぞって、小さく息を吐いた。
「なら、浩竜の知っている文字を教えてくれる?一つ一つ積み重ねれば、いつかは紐解けるかもしれないものね」
それからというもの、リセは浩竜に文字を教わることになった。
文字を教わる合間も、リセは浩竜に色々なことを訊ねた。
これまでの彼の見て来た広い世界に心を躍らせ、リセは聞き入った。
「ふぅん、浩竜の『瞳』は『お祖母様』譲りなのねぇ」
倭寇であった浩竜の曾祖父は大陸の女を娶り、やがて祖父が産まれた。
そして祖父はポルトガルの漂流船にいた宣教師の娘を娶り、浩竜の父が産まれる。
浩竜の母はインド諸島の島民だった。
「俺の産みの母は、お前と同じでなかなかの『武闘派』だったと聞くぞ。美しく、剣舞を舞う姿を父が見初めたらしいが、俺を産んで間もなくの頃に亡くなった」
「肥立が悪かったの?」
「いや……そうじゃない。いきなり村を襲って来た『海賊』に抵抗して殺されたそうだ」
「そう……お気の毒に」
「嵐と同じだ。予期せぬ不運は何処にでもある」
「浩竜の武術は?あれは誰に教わったの?」
「島民の可笑しな爺さんだ。しかし、原点は琉球王朝に伝わる古武術だと聞いた」
浩竜は己の知る海図を記した。
そして、空いたところに下手くそな似顔絵を落書きする。
「くふふっ、それじゃあ、まるで鮃みたいよ」
「ははっ、平べったい顔に小さい口が特徴なんだ。会えば、リセも似ていると言うぞ?」
浩竜がその鮃さんを慕っていることは、その話しぶりから分かる。
型があるなら、手ほどきして欲しいとリセがせがめば、浩竜は苦笑しながらも腰を上げた。
「お前は何にでも興味を持つんだな……」
そう言われると、少しばかり語弊があるようにリセは思う。
「浩竜にはそうしたものが沢山詰まっているのよ、多分ね」
いつの間にか、リセの内にも浩竜という男が大きく育っていく。
この数奇な巡り会わせに、リセは感謝さえ覚えていた。
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