~生きるも死ぬも縁の内

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~生きるも死ぬも縁の内

 一文字一文字の意味を綴って、先ずはラテン語の字引きを作ろうとリセは考えた。 「何だか不思議ねぇ。これ全部浩竜の中から出て来たものなんだから」 今日の分を紙束に綴じて、一つ一つを最初から順繰りに発音することでお勤めは終了する。 『疲れたぁ』 覚えたラテン語を口にして、リセはゴロンと床に転がった。 『こっちも終わった』 書物に知った文字が出てくれば浩竜は印を付けてくれていた。 虫食いだらけではまるで文章にならないが、視えてくるものもある。 「一つ一つの文字が似たような発音になっているな……次の文字で音が変わるのか」 ブツブツと何やら考察にふけり、浩竜はサラサラと筆を執った。 「音を文字に当てはめれば、もう少し語彙が増えるな」 「『本書は』トウアグサシュ?何だ?」 「ああ……『海を越えた』か。……『紀行文』?』 音を当てはめるにしても、根気がいる作業だった。 「くそっ……波を読む方がまだ簡単だ」 浩竜は投げそうになる己の心と闘っていた。 「そうね……。それに、その書物が医術書かどうかさえ分かったものじゃないの」 「何!?」 軽く殴られた心地で浩竜はリセを睨み付けた。 「そう睨まれてもね……。異国の書だというだけで貴重な物なのよ?」 「冒頭から察するに違うな。航海日誌か何かじゃないのか?」 「何でもいいのよ、あちらの文字に触れることが先ずは目的だから」 リセは本当に医術書を手に入れた時に、読める自分でありたいのだ。 「海を渡った先にある国々は、この国よりも進んでいるものが沢山あるのでしょう?それに期待しているの」 とは言え、リセも浩竜と同じく実践派だ。 独りで挑んでいれば、心は折れていたに違いなかった。 「何つぅ……気の長い話だ」 回りくどい作業に、浩竜は頭を抱えた。 「いつか――」 『(異国へ)連れて行ってやる』と、そう言いかけた浩竜であったが、岡場所の女たちの切実な願いを思い出し、口を噤んだ。 『私たちからおリセさんを取り上げないでね……』 浩竜はもどかしさに頭を搔き乱した。 「浩竜?」 「いや……、今日、岡場所の女が此処へ来ただろう?」 浩竜の猪牙舟に乗って来たのだ。そして、その帰りも彼が送り届けた。 「ああ、お(こう)さんね」 岡場所の下男――廓で下働きをしている奉公人を共に連れて、お香はリセに救いを求めて来たのだ。 「随分と具合が悪そうだったが、大丈夫だったのか?」 あのまま帰しても。と、いうことなのだろう。 「――病気じゃないもの」 床に転がったまま、リセは灯りを遮るように額に手を置いた。 「……子でも出来たか?」 リセはため息と共に小さく頷いた。 「つわりが酷いようだったけれど、それは……大丈夫よ」  但し――。 遊女は孕めば仕事にならない。だからこそ堕胎の道を選ばざるを得ない。 それは異国においても同じ扱いなのだろう。 それを察したからこそ、浩竜も声が暗かったのだ。 「大抵は生薬を多量に服用させて、流すことになるわ」 それで流産できなければ、別の方法を取らざるを得ない。しかし、どれも母体への危険が非常に高いのが現状である。 自然の理に背く代償は計り知れないものだった。 「母体の安全だけを考えれば、無理に堕胎させずに自然に任せて産み落とすことが、一番危険の少ないことよ」 けれど、遊女にそれは選べない。 十月十日以上もの間、仕事をしないわけにいかないからだ。 それでなくとも、望まれず産まれた子は母親から乳を与えられることは無い。  間引き――育てられない子はあの世に送り返されるのだ。 この世に息づくことが許されるのは、生存競争に打ち勝った運の強い者だけである。 「この国ではね、子が七つになるまでは人の子ではないの」 この世の者として認められない。 そうとでも思わなければ、子をあの世に見送った親は心に踏ん切りが付けられない。 それがこの世の痛ましい理だった。 「医者なのに、殺した数の方が多いなんてね」 何という皮肉。 「医者とは難儀な商売だな」 「ええ。でも、生きる上ではどれもがよ。そうでしょう?」 どれも難儀な商売だ。 忍び然り。 医者然り。 遊女然り。 海の男然り。 生きることは常に命懸けだ。 この世にあれるだけ足掻いて、生きる。 それがこの世に生を受けた者の宿命。 「お香さんは気持ちの整理をしたいと言って、今日のところは帰ったわ」 お香がどの道を選ぼうと、腹の子がこの世に息づくことは許されていない。 そんな糸口の見えない無情の中、リセがお香に願っていることは、酷なことであった。
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