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岡場所に辿り着くや、リセは女郎長屋に走り込む。
今の時分は仕事に出ている者がほとんどで、長屋はがらんどうとしていた。
「お、おリセさん……」
お香と部屋を同じくする女郎の一人が、ぐったりと横たわるお香を抱き留めていた。
何が起きたのか、その場の惨状を一目見て理解する。
梁に揺れる腰紐――お香は首を括ろうとしたのだ。
お香を検めたリセは、安堵の息を漏らした。
「……脈も息もしっかりあるね」
額を血に濡らしていたが、お香は気を失っているだけだった。
「せ、清太郎さんが逸早く気付いて……直ぐに、降ろしたの。けど、錯乱して酷く暴れて……」
清太郎――先程の下男の名だ。
暴れた末に、頭を柱に打ちつけたらしい。
女は手巾で、お香の頭を押さえ付けて、止血をしていた。
「お香さんの身籠った子は、清太郎さんとの間に出来た子だったの?」
先程の清太郎の様子からリセは察した。
女は苦々し気に頷いた。
「前からね……少し気にはなっていたの」
そうと気付いた時には遅かったと言う。
無論、奉公人が女郎に手を出すことは許されない行為に他ならない。
「お香を足抜けさせて欲しいと願い出て……でも、案の定に番頭らは清太郎さんを折檻してね……何も、お香の前でなくてもいいものを――。嘆き狂うのも無理ないのよ」
女は蒼白になって声を震わせ、むせび泣いた。
「あ、あいつらは……ひ、人でなしよ」
元締めとしては、女郎らへの見せしめのつもりでもあったのだろう。
リセはただ黙って相槌に頷き、女の背を撫でてやる。そして、手をお香の頭から外させた。
「ん、もう血が止まってるね。頭は驚くほどに血が出るところでね、押さえて止血出来ていれば大事無いよ」
問題は胎の子の方だ。
案じて、お香の着物の裾をめくり上げれば、襦袢は血で真っ赤に染まっていた。
「さ、さっきまではそんなことには……」
女は息を呑んだ。
出血量の多さに、流産していると知れた。
どうやら子宮内の内容物が全て吐き出され、治療の必要は無さそうである。
幸か不幸か、母体に最も危険のない形で子は流れたのだ。
「湯を沸かして来てくれる?」
リセは落ち着いた声で女を促した。
女は気丈に頷き、その場をリセに預けて土間へと急いだ。
昼の折に、リセは清太郎に声を忍ばせていた。
『お香さんに見張りを立てた方がいい。廓の女は逞しいけれど、脆くもあるからね』
リセの危惧していたことが現実に起きてしまった。
遊女が胎の子に愛着することは薄いのだが、思いつめた様子のお香をリセは危ぶんでいたのだ。
──惚れた男との子なら尚更か……。
廓の女に限らず、好いた、惚れたが成就することなど奇跡に等しい。
なれど――。
「諦めたら……もう、奇跡も起きないよ」
人の生死を散々目の当たりにしてきたリセは、奇跡があることを知っている。
それでなくても生きていて良かったと、笑える日もそのうち来るかもしれない。
けれど、そんな淡雪ほどの可能性ではお香はとどまってくれないだろう。
それでも、願わくは、どうか生き抜いて欲しい。
如何にすればお香にそれが届くのか、介抱しながらリセは頭を悩ませていた。
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