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それはお香の意識が戻る頃合いでのことだった。
屋根裏から不意に殺気が放たれ、リセは驚きに天井を凝視する。
殺気はリセに語っていた。もう、逃れられないと。
里を離れて三年――。
それは長い様で短かった。
とうとうかつての同胞に見つかってしまったのだ。
それはリセの命がこの世を去ることを意味していた。
「直ぐに行く」
リセは暗い梁の上にいる者に向けて静かに告げた。
今だけは医師としての務めを全うしたい。
殺気を放った者は音もなくその気配を消した。
目を開けたお香は、いつになく険しい顔つきにあったリセに驚いた。
ためらいがちにリセの袖を引く。
「おリセさん、厄介を掛けてしまって……」
憂いた、それでいて心許ない表情のお香に、リセは我に返って首を横に振る。
表情を改め、いつもの落ち着き払った町医者の顔つきに戻った。
「辛いのは分かっているの。死んで楽になれたらと思うお香さんの気持ちもね……これまで沢山、診て来たから」
お香もそれを知っている。
リセは廓の女と共にあった。
遊郭の華やかな面からは想像できない、その裏にある女たちの苦しみに、見て見ぬふりをせずに、共にあろうと真摯に向き合っていた。
だからこそ、廓の女たちはリセに命を預けているのだ。
お香は自分の胎に手を添え、リセの診断を待った。
「見送ったよ。子はこの世にとどまろうとはしなかった」
お香は下唇を噛んで、顔を悲壮に歪めた。
「……一緒に逝きたかったわ」
お香の目尻から涙が流れた。
逝ってやりたいでは無く、逝きたい。
そこにお香の本音がある。
惚れた男と添い遂げられないことに絶望し、お香は生まれることを許されない子を水先案内にして、逝こうとしたのだ。
「子は引き返したんだよ。共に死のうとしたお香さんを母として認めなかった。逝ったところで共に歩いてはくれないよ」
冷たい言葉かもしれないが、生と死の線引きがなされた今、子の命を手前勝手な逃げ道にしてほしくなかった。
「暫くは子を名残惜しんで身体が痛むかもしれないけれど、子はお香さんに未来を残してくれたよ。堕胎治療は死と隣り合わせに危険なもので、その苦痛も計り知れない。今後、子を産めない身体になることだってある。それらの危険から、お香さんを守ってくれた」
リセはお香の胎に手を添え、よくやったと讃えるように撫でてやる。
子が誇らしげに笑った姿が見えた気がして、リセは仄かに目元を和らげた。
「今はきちんと身体を休めることが大事よ。いつかまた、子と見えるときは来るかもしれない。その時は、子を抱いてやれる母であるかもしれない」
絶望している者に、希望を持つことを望む。
死を望む者に生を望む。
身体が回復すれば、また廓での暮らしが待っているのだ。
リセが望むことはきっと酷なことだ。
けれど、この世にある者を引き止めることが医者の仕事だった。
お香は泣きじゃくるばかりで、今は何を言おうと届かないだろう。
そうであっても、リセには今しか残されていない。
「どんなに辛くとも、潔く生きて欲しい。廓の女の潔さにはきっと誰も敵わない」
それも、お香は知っている。廓にはそんな誇り高い女がいることを。
踏まれても、絶望に打ちひしがれても、雑草の如く潔く今を生きる女たち。
「子の分も生き抜いて、この世の辛さに抗った強い母だったと、今度こそ堂々と胸を張れるんじゃないかな」
少なくともリセは、藤十郎に己を誇りたい。
『藤に救われた命は、決して無駄にはしなかった』と、胸を張って笑いたい。
お香は涙を溢れさせながらも、リセの差し出す薬湯に口をつけた。
泣いてもいい。
泣いて、泣いて、それでも足掻いて生きて欲しい。
「お香さん、どうか生き抜いて」
かつて藤十郎がリセに託したように、リセはお香に生きることを託していた。
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