~生きるも死ぬも縁の内

4/19
前へ
/186ページ
次へ
 それはお香の意識が戻る頃合いでのことだった。 屋根裏から不意に殺気が放たれ、リセは驚きに天井を凝視する。 殺気はリセに語っていた。もう、逃れられないと。    里を離れて三年――。  それは長い様で短かった。 とうとうかつての同胞に見つかってしまったのだ。 それはリセの命がこの世を去ることを意味していた。 「直ぐに行く」 リセは暗い梁の上にいる者に向けて静かに告げた。 今だけは医師としての務めを全うしたい。 殺気を放った者は音もなくその気配を消した。  目を開けたお香は、いつになく険しい顔つきにあったリセに驚いた。 ためらいがちにリセの袖を引く。 「おリセさん、厄介を掛けてしまって……」 憂いた、それでいて心許ない表情のお香に、リセは我に返って首を横に振る。 表情を改め、いつもの落ち着き払った町医者の顔つきに戻った。 「辛いのは分かっているの。死んで楽になれたらと思うお香さんの気持ちもね……これまで沢山、診て来たから」 お香もそれを知っている。 リセは廓の女と共にあった。 遊郭の華やかな面からは想像できない、その裏にある女たちの苦しみに、見て見ぬふりをせずに、共にあろうと真摯に向き合っていた。 だからこそ、廓の女たちはリセに命を預けているのだ。 お香は自分の胎に手を添え、リセの診断を待った。 「見送ったよ。子はこの世にとどまろうとはしなかった」 お香は下唇を噛んで、顔を悲壮に歪めた。 「……一緒に逝きたかったわ」 お香の目尻から涙が流れた。 逝ってでは無く、逝きたい。 そこにお香の本音がある。 惚れた男と添い遂げられないことに絶望し、お香は生まれることを許されない子を水先案内にして、逝こうとしたのだ。 「子は引き返したんだよ。共に死のうとしたお香さんを母として認めなかった。逝ったところで共に歩いてはくれないよ」 冷たい言葉かもしれないが、生と死の線引きがなされた今、子の命を手前勝手な逃げ道にしてほしくなかった。 「暫くは子を名残惜しんで身体が痛むかもしれないけれど、子はお香さんに未来(さき)を残してくれたよ。堕胎治療は死と隣り合わせに危険なもので、その苦痛も計り知れない。今後、子を産めない身体になることだってある。それらの危険から、お香さんを守ってくれた」 リセはお香の胎に手を添え、よくやったと讃えるように撫でてやる。 子が誇らしげに笑った姿が見えた気がして、リセは仄かに目元を和らげた。 「今はきちんと身体を休めることが大事よ。いつかまた、子と(まみ)えるときは来るかもしれない。その時は、子を抱いてやれる母であるかもしれない」 絶望している者に、希望を持つことを望む。 死を望む者に生を望む。 身体が回復すれば、また廓での暮らしが待っているのだ。 リセが望むことはきっと酷なことだ。 けれど、この世にある者を引き止めることが医者の仕事だった。 お香は泣きじゃくるばかりで、今は何を言おうと届かないだろう。 そうであっても、リセには今しか残されていない。 「どんなに辛くとも、潔く生きて欲しい。廓の女の潔さにはきっと誰も敵わない」 それも、お香は知っている。廓にはそんな誇り高い女がいることを。 踏まれても、絶望に打ちひしがれても、雑草の如く潔く今を生きる女たち。 「子の分も生き抜いて、この世の辛さに抗った強い母だったと、今度こそ堂々と胸を張れるんじゃないかな」 少なくともリセは、藤十郎に己を誇りたい。 『藤に救われた命は、決して無駄にはしなかった』と、胸を張って笑いたい。    お香は涙を溢れさせながらも、リセの差し出す薬湯に口をつけた。 泣いてもいい。 泣いて、泣いて、それでも足掻いて生きて欲しい。 「お香さん、どうか生き抜いて」 かつて藤十郎がリセに託したように、リセはお香に生きることを託していた。
/186ページ

最初のコメントを投稿しよう!

62人が本棚に入れています
本棚に追加