62人が本棚に入れています
本棚に追加
その頃、女郎屋の番頭は目を吊り上げていた。
「おい、そこで何をしている!?」
徳利の口に布を詰め込んで、今まさに付け火をしようと企てている者を見咎めた。
覆面をしたその者は、番頭に体当たりをして逃げた。
「あ、あ、赤猫だぁぁぁ!!!」
赤猫とは、火事や放火の隠語である。
木造長屋の連なる界隈では、一度火の手が上がるとたちまち火が舐めるように移り飛んで大火事になることが多かった。
油を舐める猫から取ったのか、赤猫と呼んだり、赤馬と呼んだり、口にするにも憚れるほど、人々は火事を恐れていた。
「お、おリセさんの言ってた通りだわ……。本当に赤猫が来るなんてね」
女郎の一人が口元を押さえて、怯えた。
それは、つい先頃のこと。
お香の治療を終えたリセが、表茶屋の方に顔を見せたのだ。
『此処へ来るときに、妙な輩を見たの。ほら、本妙寺で不審火があったばかりでしょう?』
本妙寺とは、徳川家康公の直参らの計らいで創建された寺であり、公儀に不満を抱く者らの仕業ではないかと瓦版は噂していた。
用心するに越したことないとするリセに頷いて、女たちは雁首揃えて番頭らに近隣の見回りを頼んでおいたのだ。
リセの読みは当たる。
どうしてこの下町の界隈に忍び衆が暗躍していたのか?
まさか抜け忍探しをしていた訳では無いだろう。
岡場所は庶民の遊郭。
忍びが狙うような要人の来る場所では勿論、ない。
思い当たった任務は暗殺ではなく、江戸の町を荒らすことだった。
『もう一度俺たちの手で戦乱に戻す』――錆鉄の言葉を聞いて、おそらくリセは確証を得たに違いなかった。
将軍のお膝元が揺らげば、民は公儀の不手際だと不満を募らせたに違いない。
『どうか……気をつけてね』――案じることしか出来ない己の身をリセは疎んでいた。
廓の女たちは、そんなリセの気持ちを無駄にはしなかったのだ。
最初のコメントを投稿しよう!