七 熾火

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 源佐と会ったあの頃、あの男はまだ塾を開いたばかりの無名の儒者に過ぎなかった。だがその後江戸へ出て、多くの大名に知られるようになったかれは、春には江戸に出て大名と交わり、秋には京に戻って門弟の教育と書の出版を行うという生活を十五年近く続けることになる。特に会津の名君、保科正之には家老以上に重んじられ、学を講じるだけでなく、出版や歴史調査といった事業にも携わったと聞く。その一方で神道も究め、その方面でも多くの門弟を持った。  「闢異」―――仏教を斥け、陸王を斥け、闇斎はひたすらに朱子を信じた。源佐はやがてその朱子をも斥け、孔孟に帰ることを説くようになる。目と鼻の先だ。あの男はそれを知っていただろう。浅見をはじめ、門弟の中には源佐を誹る者もいたが、あの男自身が源佐について何かを言ったという話は伝わってこなかった。かといって、さすがに門弟を送り込まれた時には驚いたものだったが。  そういえば、朱子学一筋だった儒の方面はともかく、神道については宗派を問わず、また相手の器量さえも問わずに可能な限り多くの者から口伝や伝承を聞き取り、教えを受け、学び続けたと聞く。儒の門弟がある神官をやり込めたところ、厳しく叱責されたそうだ。叱り方が、いかにもあの男らしい。 「あの方を論破して良いなら、わたしなら一言で済む。出しゃばるな」  これも京雀たちの噂話だ。真偽の程は判らない。 『あれかこれかと迷うよりも、ひたすらに正しい道を信じて進まれよ。心が確りと立てば、その身も自ずと健やかになろう』  源佐にとっての正しい学は、孔孟に帰ることだった。ただ一人でも、目の前に伸びる道を信じて進む。恐れも、迷いもない。ただ歩み続けるだけだ。  源佐はそれを、恐らくあの男から学んだ。そのことは、相手に伝わっていたかどうか。  間もなく一周忌を迎える。あの男の門弟のみならず、あらゆる「正学」の学者からは蛇蝎(だかつ)のごとく嫌われているから、邸でそっと酒でも供えることにしよう。  そして祈ろう。祭祀を受け継ぐ後嗣を持てなかったあの男の魂が、どうか安らかであるように。  同じ儒の道に生きる者として。  源佐は書を閉じ、しばらく瞑目した。そして傍らの灯火を吹き消し、しばらくの間、庭から響いてくる虫の音に耳を傾けていた。           【了】
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