一 堀川の鶴屋 ―伊藤仁斎ー

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一 堀川の鶴屋 ―伊藤仁斎ー

 天和三年(一六八三年)晩秋九月、京。 「ちょっと出てくるよってな」  朝餉(あさげ)を終えて日も高くなってから、伊藤源佐(げんすけ)は家人に声をかけて堀川の邸を出た。いつものように、十四歳になる長男源蔵を伴っている。晩婚だった源佐が、四十四歳の時に授かった子供だ。妻は五年前、源蔵と二人の娘を遺してこの世を去った。  その後迎えた二人目の妻ふさに、先月次男が生まれた。今日は産土神である下御霊社に、その初参りの相談をするつもりだった。下御霊社は鴨川のすぐ近く、御所の東南にあり、源佐が邸を構える堀川からそう離れてはいない。 「おや鶴屋はんに坊ちゃん」  町内の商人仲間、松屋に屋号を呼ばれ、源佐は足を止める。還暦も過ぎ、そろそろ隠居を考えているという松屋は、白髪交じりの頭をするりと撫でて軽く会釈した。 「先だっての会は中座してしもうて、すんまへんでしたなあ」  源佐は数ヶ月前から町会所を借りて『大学衍義』という書の輪読会を行っているが、松屋は家人が呼びに来て途中で帰宅した。お互い何かと所用もある身だから、別に何の問題もない。  そもそも輪読会は源佐が主宰しているというだけで、松屋とは別に師弟の関係ではない。学問の水準はおくとしても、源佐は「学問仲間」、つまり「同志」だと思っている。 「あれから一人で読んでみましたんやけど、どないも判らへんところがあって。次の回までに、ちょっとお伺いしてもよろしいか」  熱心な言葉に、願ってもないことと源佐は微笑する。 「暮れ前にでもこちらから寄せてもらいます。ややもおってうちは何かと落ち着かんですやろ」 「そら有難いけど、用事あらはるんと違いますの」 「下御霊さんへ行くだけやし、(ひる)過ぎには戻ります」  礼を言う松屋に軽く会釈を返して、源佐は再び歩き出す。源蔵もぺこりと頭を下げ、その後に従った。
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