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5 惜別
『猫男爵』は音も無く歩み寄る。
その七本の尾を揺蕩わせながら。
その銀と蒼の瞳を煌めかながら。
その黒き毛並みを波打たせつつ。
滑るかの如き雅やかな脚運びで。
『猫男爵』のその姿を目にする度、
私の中にとある願望が湧き起こる。
願望は衝動となり、私の手を仄かに戦慄かせる。
そんな密やかなる願望、
それがもたらす仄かな手の戦慄き。
それらを『猫男爵』に気取られぬよう、
私は両の手に力を込める。
実際の『猫男爵』の大きさ、
それは普通の猫と同程度だ。
しかしながら、
その大きさは虎ほどにも錯覚してしまう。
それは、『猫男爵』の持つ強大な力所以なのだろう。
溢れ出す霊力とでも言うべきものが、
その姿を実際よりも遙かに大きく感じさせている。
ただ、『猫男爵』としては、
これでも霊力の発散を抑えてはいるのだろう。
相対する者に無用な怯え、
或いは警戒心を抱かせないように。
猫は、無用な喧嘩を避けるものなのだ。
『猫男爵』は、私たちの眼前でその歩みを止める。
行儀良く前足を揃えてそこに座る。
『猫男爵』が座る姿、それは優雅そのものだ。
そして、徐ろに私たちへ語り掛ける。
いつものように慇懃な口調で。
どことなく笑いを湛えた声色で。
「ご機嫌よう、猫泥棒の諸君。今宵も月が見事ぞ。」
私は『猫男爵』に黙礼し、目を伏せながら答える。
「お久しゅう御座います、『猫男爵』様。
ご機嫌麗しゅう存じます。
お尻尾様方も長やかで艶やかであり、
常ながら素敵にて御座います。
今宵の月は『猫男爵』様のお瞳の如く美しく、
そして、見る者を虜にする
妖しき輝きに満ち満ちて御座います。」
柴犬も、リスザルも、そしてインコも『猫男爵』に黙礼する。
『猫男爵』は高貴な存在なのだ。
先程、『猫夢殿』で出遭った下働きの猫たちは、
現世から手伝いにやって来ている、
謂わばアルバイトのような存在だが、
この『猫男爵』は、彼らとは天と地ほどに、
その格は違う。
『猫男爵』は、猫の神様達が居る『猫世界』に住まう存在であり、最早、神にすら近しい存在であるのだ。
もしも、この『猫男爵』が本気を出して、
我々『猫泥棒』に相対しようものなら、
我々が得た『年貢米』は
即座に全て没収されることは勿論のこと、
一瞬のうちに、この夢の世界から追い出されてしまうのだろう。
そのような高貴で力ある存在には、
然るべき礼節を以て相対しなければならない。
それが、如何に厄介な相手であろうとも。
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