5 惜別

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『猫男爵』は立ち上がる。 その七本の尻尾を揺蕩わせながら、 私のほうへと歩み寄る。 その脚運びは、実に雅びやかだ。 私の足下に辿り着いた『猫男爵』は、 私を見上げながら、こう口にする。 「早ようせぃ、昭典(あきのり)。猫は気紛れぞ。」 半ば茫然自失としていた私は、 『猫男爵』の言葉に我を取り戻し、 そして、その場に胡坐となる。 『猫男爵』は、組んだ私の足の中へと、 そのしなやかな身を横たえる。 『猫泥棒』となり、 そして、『猫男爵』を目にして以来、 私が抱き続けていた願望。 私の心の深奥にて、沸々と滾り続けていた願望。 それは、一度でいい、一度でいいから、 この『猫男爵』を撫でてみたいという欲求だった。 『猫男爵』の姿を目にする度、彼が持ち出すであろう無理難題や意地悪に心を悩ますと同時に、『猫男爵』のその艶やかな毛並みは、猫好きの身にとって、一度でもいいから撫でてみたいという欲望を沸々とかき立てるものなのだ。 それが、まさか、まさか! 今宵に叶えられるとは! 喜びから込み上げる震えを抑えつつ、私は胡坐の上にその身を横たえる『猫男爵』の背へと左手を這わせる。 首筋から尻尾の方に向け、撫で下ろす。 緩やかな圧を掛け、ゆっくり、ゆっくりと。 『猫男爵』の毛皮の滑らかな触感、 程良い肉付きとゴツゴツとした背骨の感触、 そして、仄かな温もり、 それらが掌から伝わってくる。 その毛皮の触感、それは、これまで私が触れてきたどの猫のものよりも艶やかで、そして滑らかであった。この上なく高価で希少な絹織物の如く滑らかであり、山深き湖の水面の如き静謐さに満ちている。 それは最早、官能的ですらあった。 私の心中に滾々と歓喜が湧き上がる。 『猫男爵』の表情を見遣りつつ、私はその背筋を撫でる手の強さを精妙にコントロールする。 私がこれまで培ってきた、猫撫での経験を総動員し、全身全霊の集中力を注ぎ込み、『猫男爵』の背中を撫でる。
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