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『猫男爵』はよろけながらその身を起こし、
そして、私の胡坐からその身を離す。
ふらつきながら立ち、
その体を大きくブルブルッと震わせる。
「ハァハァ」と荒い息を吐きながら、
私に背を向けてその場へと、
崩れ落ちるかのように座り込む。
私は茫然自失としていた。
甘き永き深き夢から、
唐突に目覚めさせられたかの如く。
私の両の手には、
未だ『猫男爵』の毛並みの
滑らかな感覚が留まっていた。
私の両の瞳には、
未だ『猫男爵』の艶やかな毛並みの
輝きが留まっていた
それらは余韻の如く。
『猫男爵』も、そして、私も無言だった。
何とも言えぬ気まずい雰囲気が、
『猫男爵』と私との間には漂っている。
我を忘れ、自分の全ての感覚を、
『猫男爵』を撫でることへと没入してしまったことは、何とは無しに気恥ずかしいものだった。
『猫男爵』としても、自分のあられもない姿態を私の前に晒してしまったことが気恥ずかしくもあったのだろう。
『猫男爵』の七本の尾が、
うねうねと宙を揺蕩っている。
恰も『猫男爵』と私との間に漂う、
気まずい雰囲気を揶揄うかのように。
『猫男爵』は私に背を向けたまま言う。
「昭典よ、早うに去ね。
我の気が変わらぬ内にな。猫は気まぐれぞ。」
いつもと変わらぬ慇懃な口調だ。
けれども、その口調は、どこか仄かな寂しさを纏っているようにも思えた。
私は我に返り、立ち上がる。
後姿を見せる『猫男爵』に頭を垂れ、そして告げる。
「『猫男爵』様、
尊きその御身を預からせて頂いた儀、
身に余る映えにて御座いました。
この多田昭典、
深く御礼申し上げます。
『猫男爵』様、お尻尾様方、
何卒恙なくご息災であられんことを。
多田昭典、お暇致しまする。」
『猫男爵』は無言のままだった。
ただ、ほんの、ほんの少しだけ、頷いたようにも感じられた。
『猫男爵』の七本の尻尾がゆらゆらと揺蕩う。
それは恰も別れを告げるかの如く。
七本の尻尾の揺蕩う様を見ていると、頭の中に小さな声が響いてきた。
『猫男爵』の七本の尾、それらは各々が意思を持ち、そして、相応の力を宿しているのだ。
自ら音としての言葉を発することは出来ないけれども、相手の頭の中へと直接に語り掛けることは出来るのだ。
- さようなら、あきのりさん。おげんきで。 ―
- これまでおつかれさま、あきのりさん。 -
- あきのりさん、
いいねこどろぼうだったよ。 -
- ねこだんしゃくさま、さみしがってるよ。 -
- もう、とうぶんのあいだは、
あえないことを祈ってるよ。 -
― もし、その時がきたら、
ぼくたちのこと、おもいだしてね。 -
― さいごのおつとめ、がんばってね。 -
私は再び、『猫男爵』に頭を垂れる。
柴犬も、リスザルも、そしてインコも『猫男爵』に頭を垂れる。
私たちは、夢の世界の出口へと向かう。
私たちを取り巻いていた、
夢の世界の光を吸い込むが如き漆黒の闇、
それは急速に、現世の夜空へと置き換わっていく。
砂金の如き星々が、
鏡如き銀の月が輝く現世の夜空へと。
現世の夜空へと歩を進める私の頭に小さな声が響く。
- にじのはしっこで、
あきのりさんを待っている子がいるよ。 -
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