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青い匂いのする夜を揺り起こして、小さく空気が振動する。 雨に濡れた木々の匂いを嗅ぐような顔つきで物思いに耽っていた田中馨(たなかかおる)はぼんやりとしたまま視線を手元に落とした。学校の教科書と塾のテキスト、そして少しばかりの文庫本が乗っているだけの面白みのない学習机の上で携帯電話が着信を知らせている。 画面を見ずとも誰からの着信かは想像がついて、馨は意識することなくため息をついた。 彼からの電話は大抵夜更けにかかってくる。 デジタルの卓上時計は月曜日の23時20分を表示していた。 数学IIの参考書に一度視線を流した馨は少し考えてから震えるスマートフォンを指の先で手繰り寄せる。念のため目をやった画面にはやはり『天明薫(てんめいかおる)』の名前があった。いつまでも消えないバックライトの微かな明かりに諦めて通話の操作をする。 「はい。どうした?」 我ながら愛想のない声が出た。けれど、些か非常識な時間に電話をかけてくる相手には丁度いいかなと開き直る。それに彼は馨の素っ気ない態度には慣れている。 案の定電話機の向こうで彼は小さく笑ったようだった。一度電子信号に変換された声はどこかくぐもって聞こえる。低い声を甘く響かせながら、夜分にごめんと天明は今更のように詫びた。 「いいよ。なに、またフラれた?」 『またって言うな』 苦笑を滲ませつつも天明は恋人と別れたことを否定しなかった。どうせそうだろうと思った、と馨は椅子の背に凭れ掛かる。 彼は彼女に振られると決まって馨に電話をかけて来る。慰めて欲しいとは言わない。けれど短く終わった恋の話をつらつらと聞かせる。 『今回の子はちょっと我儘だったかなあ』 「そこが可愛いんじゃなかったの」 『ずっとってなると結構しんどい』 「で、喧嘩になったと」 『最後は私のこと本当は好きじゃないんでしょって泣き出すしさ』 「今回はどれだけ保ったんだよ」 机の上に広げた参考書を手持ち無沙汰で捲りながら聞く。 『二週間』 正直に答える彼を馨は「最短だな」と揶揄った。 同級生の二人はこの四月で高校三年生になった。まだ六月とはいえ大学受験が見えてきたこの時期に恋だの彼女だのに現を抜かす天明は頻繁に付き合う相手をを入れ替える。 学業が優秀なのは知っている。余裕があるのだろう。 頭が良くて、背が高くて、男らしく整った顔に爽やかな笑みを浮かべる天明はとてもモテる。モテるけれど彼の恋はいつも短命で終わる。早くて二週間。長くても三ヶ月でフラれてしまう。 それも仕方がないと思えた。何故なら終わったばかりの恋の話をしているのに彼の声は明るい。堪えていないような軽やかな口調を聞く限りでは真剣な恋愛ではなかったのだろう。 いつもふらふらと適当な恋を重ねる友人を理解することは馨には難しかった。だから慰めの言葉もついおざなりになってしまう。 「まあ、気にするなよ」 自分でもわかるほど気のない慰めだった。天明が何かを言う前に掻き消したくなって弄んでいた参考書を閉じる。パタンッと重い紙が重なる音は思いの外大きく響いて電話機越しの天明が沈黙した。 「悪い。手が滑った」 『なに、勉強してたの?』 「そりゃあ受験生だからね」 『じゃあ長話も申し訳ないからそろそろ切るわ』 「そんなつもりじゃ」 『いや、俺もこれから風呂入るから。じゃあまた学校で』 電話を切る気配を醸す天明が柔らかな声で言った。 『ありがとう。話聞いてくれて』 「聞くくらいいつでもしてやるよ」 愛想のない自分の声に続いて、彼がふふっと小さく笑うのかが聞こえた。いつも陽気な天明らしい声が弾むように名前を呼ぶ。 『おやすみ、馨』 「…薫も。おやすみ」 互いの名前を呼び合ってぷつりと電話は切れた。
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