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第二章 悲痛
御杯さんに促されるまま、歩道から芝生へと足を踏み入れた。
公園に立ち入るのは子供の頃以来だった。砂場があって、遊具があって・・・昔より公園として整備されたみたい。
森へと続く小路に入った。以前はもっと長い道に感じたものだが、実際はそれ程でも無かった。次第に鬱蒼とした森が近づいてくる。僅かながら息を飲むが、御杯さんは平然と説明をしてくれた。
「この林は人為的に設えられたもので、公園と施設の境界を分かつ役割をしているわ」
木々は密集して植えられ、人が入る隙間もない。成程、自然な景観を保ちつつ塀の役割を果たしているんだ。そして、緑の塀を廻る様に小路が続いていた。子供の時は気づかずに走り去ってしまったらしい。
先程のバス停が見える所からちょうど真裏に当たる位置で、木々の並びが切れた。代わりにコンクリート製の壁が小路に沿って延びて、先の方に鉄製の門が現れた。公園と反対方向には、門に繋がるアスファルトの道が走っている。車での出入りも可能なわけだ。
入口に『絶滅動物保護・育成・・・』といった文字が。看板だけ取り替えたのだろうか?真新しい物だった。
「ここが当施設の正面口よ。少し待ってね」
門の横に守衛室がある。御杯さんが声を掛けると、中のおじいちゃんが出てきて一礼した。気さくな感じで、私にも笑顔で会釈してくれる。動物愛護団体絡みだからかな?
守衛室に戻ってパチパチと操作すると、鉄のパイプ部分が音もなく動き出した。パイプは施錠の役割を果たしていたのであろう。続いて鉄の扉が真ん中から割れて、道を開く。
何とも重々しくて厳重な感じ。しかも全て電子制御によるらしい。勝手に『古い』施設と決めつけていたから、ちょっと意外だった。門をくぐって内側へいたる。
遂に木々の狭間にそびえ立つ建物を目の当たりにした。
高さはそれ程ではなくて、平屋建てで幅が広い。形状は大きな円柱形、石造りに見えたが灰色のコンクリート製だった。角度的に裏までは見通せないが、重苦しい印象だった。
門から建物までは舗装された道だが、周辺は芝生が囲む。基本自然を守ろうという意思を感じさせた。
イメージでは中は薄暗そう・・・と思ったのだが、自動ドアがシュッと開いて足を踏み入れて見て驚いた。通路はLEDライトの白い光で明るく照らされていた。材質はアルミっぽい質感で、触るとつるりとしていた。
(何だかアニメで見る秘密基地みたいだな)
入口からの通路は建物の外周に沿って弧を描いている。内側に部屋が配置されていて、最初の部屋、『第一研究室』に通された。
御杯さんが、首から下げたカードキーで操作してドアを開ける。感心して口をあんぐりと開けてしまった。思った以上にハイテク仕様の施設だった。
室内も同様に明るい。広い空間に整然とデスクが並び、パソコンがずらりとある。良く分からないながらも、研究所っぽいなと思った。一見したところ他に人はいない。御杯さんが、壁際にくっつけて設置された横長のソファー席を薦めてくれた。
公園を歩く間に軽い世間話をして、御杯さんとは何気に打ち解けた感がある。肩書きも外見もお堅いイメージだけど、柔和に笑うと穏やかさが伝わってくる人だった。
「寛いでいてね」彼女はそう言って、カードロックキーを使い一度研究室を出ていった。
腰を下ろして、物珍しく室内を見回した。全面が白い壁の正方形で、材質は通路と同じ物だった。一部だけ柱が突き出している。排気管でも通っているのかな?その後ろだけ陰が出来ていた。他に扉は無し、窓もない・・・でも空調が行き届いているらしく、すごく快適な空間だった。
私が勧められたソファーは、来客用と言うより休憩用かも知れないと思った。それが証拠に、向かい合うソファは無い。正面はデスクとパソコン。イスは背もたれがこっちを向いてる。ソファーの側面、壁に沿って小テーブルを配置してる。この事からして、向かい合ってお茶する用途はなさそう。
ボーッとして座っていると、自然と正面のパソコン画面が目に入るのだが、今映ってるのは文字と式ばっかりでつまらない。
科学的な空間に一人置かれて、場違いな存在でしかないと思い知る。
(なんで私はここに招かれたんだろう?)改めて疑問に思う。
道すがらした話は、御杯さんは最近赴任したばかりであまり町に詳しくは無いという事。銀杏並木の季節を楽しみにしていると言っていた。
そんな他愛のない話で満足していないで、ちゃんと用件を聞いておくべきだったと後悔する。
程なくして御杯さんが戻ってきた。手にしたお盆の上にはティーカップとお菓子のお皿、それを側面のガラステーブルに置いてくれた。
大好きな紅茶の香りがする。
「どうぞ、よかったら召し上がってね。」
(うう・・・うれしい、久しぶりに人間らしい扱いを受けた)
また涙が溢れそうになった。紅茶で泣く程喜ぶなんて、おかしな子だと思われるだろうな。軽く視線を逸らして誤魔化しながら、平静を装って紅茶を手にした。温かい湯気に心までほわっとする。
その間に、御杯さんは正面のパソコンに向かった。立ったまま前かがみでキーボードを操作し始める。
画面が変わった。文字と式に代わって、何かが写し出されていた。
「早速だけど、あなたに観て欲しいものがあるの」
すっと、デスクから私の隣に移動して御杯さんが言った。
正面のパソコン画面が目に入る。私は食べかけのクッキーを手にしたまま、思わず言葉を漏らした。
「綺麗・・・」
それは大自然を悠然と歩く動物の映像。真紅の瞳、引き締まったシャープな肢体、そして全身を覆う白銀に輝く体毛。
息を飲む程に美しい姿に見惚れた。頬が赤くなってゆくのを感じていた。
御杯さんも私の表情に満足したように微笑む。そして、優しい口調で囁く。
「ホワイトパンサーよ」
「ホワイトパンサー」私も同じように呟いた。
(豹だよね?柄が全くないけど。それにしても、こんなに美しい動物がほんとにいるなんて・・・)
「現在、世界中で確認されているのは、この一組のつがいだけ」
次の映像にはメスらしき姿も一緒に映っていた。仲睦まじく寄り添っている。
ほんわり見ている私とは対照的に、御杯さんは眉間にしわを寄せ辛そうな表情を浮かべていると気付いた。
「アフリカの自然公園で保護されていたのだけれど、先日密猟の危機にさらされてしまったわ。そして傷を負い、治療の為この日本へ・・・秘密裡に運ばれてきたのだけれど、あまり芳しくはないの」
「そうなんですか・・・」いまひとつピンとこないまま答える。
「オスの方はもう助からない。メスも危険な状態なのだけれど、驚くべき事にね・・・」
(えーっもったいない!あんな綺麗な動物なのに・・・)
「お腹の中に胎児がいたの」
「えっ?」一瞬驚いたけど、有り得る事だよね。でも胎児の状態じゃ母親がダメならダメなんじゃないの?
「実際厳しい状態よ。お腹の中で命があるのは一体だけ、他の子達は鼓動が確認出来ないわ。その一体を守る為、胎児をお腹から取り出して人口保育カプセルに入れる方法が検討されているんだけれど」
(すごっそんな事出来るんだ)ここのハイテク研究所の様子を見ると、何気に納得出来た。
「ところが、胎児に使える物となると未だ開発途中で、調整なども含めると、どうしたってあと一月以上はかかってしまうわ」
(じゃあ、やっぱり・・・残念だけど)勝手に結論を出して、なんとなくシュンとした気分になった。
しかし御杯さんの話は続く、今までにも増して辛そうな表情になりながら。
「・・・ひとつだけ方法が。他の動物の胎内に一時的に入れるという方法があるの・・・」
(それも凄い!じゃあライオンとか猫とか?)少しずつ飲んでいた紅茶が空になったので、テーブルに置いた。
「・・・今まで実験が繰り返されてきたけど、成功しなかった。理論的には可能なはずなの。けれど、母親のほうが保たないのよ。自分のお腹の中に別の生き物を入れられる事が、理解出来ないのね。精神的に病んで、胎児共々亡くなってしまうわ」
言葉を切って、躊躇う表情を見せる。何だか・・・凄く言いづらい事を言おうとしてる?
「・・・理解するには、理性が必要なの。胎児は一時的に預かっているだけ、その命を救う為に、協力しているのだと理解する為には・・・」
(ちょっと待って。これって私に関係のある話してるんだよね?もしかして、まさか・・・)
「理性を持った動物は、人間だけなの」
ここまで話を聞けば、いくら鈍い私でも察しがつく!
(つまり、私のお腹に・・・豹の胎児を・・・イレルトイウコト・・・)
ガタッ!
反射的に立ち上がり、バランスを崩して壁に寄り掛かった。テーブルに振動が伝わりティーカップが転がる。空にしといて良かった。
この尋常でない私の反応を目の当たりにして、御杯さんも慌てたようだ。
私の膝に両手を添え、すがる様な瞳で見上げてきた。
「まだ使われていない、若くて健康な女性の子宮が必要なの!それがあれば助けられるの!!」
(何言ってるのこの人!怖い怖い・・・怖い怖い怖いっ!!)
私は大急ぎで部屋の中を見渡す、窓はない。出るには入ってきたドアだけ・・・どうする!?この人の首から下げてるカードを奪って逃げる??
そう思った時、不意に動く物が目に入った。白く細い幽霊みたいな人影・・・
(いや、人がいる!白衣の男性だ・・・いつからいたの?入口とは反対方向なのに、どこから現れたの??)
彼は左手に持ったペンのお尻を神経質そうに振りながら、私からは顔が見えない角度で近づいてきた。
目の前のデスクのイスを手早く引いて、私達には背を向けて座った。青白い指がキーボードの上を走る。操作は右手だけで、デスクに置いた左手は相変わらずペンを振り続けている。
ホワイトパンサーの映像から、人体図のイラストへと変え、独り言のようなボリュームで語りだした。
「手術は5時間を予定しています。全身麻酔を使用するので、感覚はありません。胎児は極小さい物なので、大きく切る事はせず、腹部の下の方に極力小さい穴を開けます。その上で管を通して子宮内へと胎児を導きます。」
顔も向けずに、一方的にぶつぶつ言うだけ。私は呆気に取られてしまった。
(えっ何この事務的な説明・・・もうやる事になってるの?)
そんな私の心の声を察したのか、御杯さんが身を乗り出して抗議してくれた。
「待ってください梶谷先生!彼女はまだ決心していないんです!」
彼はずっと左手のペンを振っていたが、ここで初めてその動きを止めた。そして御杯さんの側へ少し振向いた。
「朝も言ったけど、あと27時間。それ以上はこちらも責任持てない」
相変わらず私には顔が見えないが、例のペンのお尻で何気に私の方を指しながら・・・
「借金で首が回らないから選んだんだろう?お互い躊躇してる場合じゃないんじゃないかなぁ」
と言い残して席を立った。そしてやっぱり顔を見せず、やっぱりペンを振りつつ、部屋の奥の方へゆらゆら歩く。研究室内で唯一見渡せないのは、張り出した柱の陰だった。そこまで行って、気配までも消えた。
何か拍子抜けしてしまった私は、そのままずるずると壁を擦りつつイスに戻った。御杯さんも落着きを取戻し、座り直した。
横に並んでひと呼吸つくと、御杯さんが口を開いた。
「ごめんなさいね」
「いえ・・・」
「彼は梶谷 狩人(カジヤ カルト)先生。大学病院から来てもらっているの。優秀なんだけど・・・」
おそらく、あの人のさっきの発言を謝ってくれたんだろうけど、私は実はその点はさほど気にしていなかった。
だって借金で首が回らないのは本当の話だ。そうゆう人選で調べて、私に行き着いたんだと納得出来る。
(それに・・・それはつまり、ホワイトパンサーの話しを引き受ければ、何らかの報酬が期待出来るという事よね)
「とにかく、一度気を落着けて考えてみて貰えないかしら」
「・・・はい、そうします」はっきりノーとは言えない状況だ。
「・・・でも、本当にもう時間は無いの。明日の朝までが限度・・・ごめんなさい」
彼女はさっきの男性とは違う。しっかり私の目を見て、本当に申し訳なさそうに瞳を揺らす。
(分かってるんだな・・・自分の言ってる事がいかに無茶か。それでも何とかして、消えそうな命を救いたいんだな)
いつの間にか時間が随分と経っていた。研究所を出ると、陽が落ちて暗くなりかけていた。
門の辺りまで歩いて振り返ってみると、建物は静かに薄闇に溶け込むようで。内部の明るさやハイテクを一切感じさせない。本当にあの中にいたのだろうかと疑わしくなる。
何だかすごく疲れたような気がして、公園の一本道を必要以上にとぼとぼと歩く。
「こんな話・・・」ついさっき聞いたことを考えようとするけど、まとまらない。そうよね、科学にも生物にも詳しくないんだから。
そんな無駄な考え事に取りつかれて、私はいろんな事を忘れてしまった。
まず、スーパーでの買物を忘れた。銀杏並木の通りを廻って寄ってくる筈なのに、真っ直ぐ帰ってきてしまった。そして、あろうことか家の前で見張っている男達の存在をうっかり忘れていた。
またせせら笑うような表情で近づいて来て、取り囲もうとしている。
(もぉーこんな時に!むかつくっ!!)
私は両手で耳を塞ぎ、頭を抱えるようにして家に全速力で駆け込んだ。背中で男達の下品な笑い声を聞く。またずらずらと車に戻ったようだ。
(お願いだから、消えて無くなってよ!!)
鍵をしっかりと閉めて、大きく息を切らす。苛立ちが募って、運動靴の足で床を蹴る。
それから家の中へ目を走らせた。夜になったせいもあるのだろうか?出掛けた時にも増してシーンと静まり返っている気がする。
階段を登ろうとしたが、不安な気持ちが湧き起こる。
(お母さん達、どうしてるんだろう・・・)
顔を合わせたいという衝動に駆られた。電気は点けられないから、暗い中で廊下を手探りする。
台所への戸は閉じていた。普通に生活していた頃は常に開け放たれていたのにな。カチャリと開くと、やっぱり真っ暗。ダイニングテーブルなんて立派な物じゃないけど、テーブルとイスが一脚だけ置いてある。食事は大体居間のちゃぶ台で済ますから、テーブルは荷物置き程度でイスは母の休憩用としてのみ用途を成していた。
そのイスに・・・母が・・・座っている。
暗闇で、身動きひとつしないで・・・確か昨日もおとといも、ここにいたんじゃなかったっけ?・・・まるで全然動いていないみたい。
「ただいま」
「・・・あぁおかえり、リカ。ご飯食べる?」
「ううんお腹空いてないから、いい」
「そう・・・お父さんは食べるかしら・・・」
と口では言っている。この会話は家族のルーティンみたいな物、惰性で繰り返しているんだ。
しかし母は全く動く気配を見せない・・・父はどうしているだろうか。
台所と襖一枚隔てて居間がある。家具はあらかた無くなった、広い部屋の真ん中に人型の毛布が転がっている。
「お父さん、お母さんがご飯食べるかって」
「・・・酒はあるかなぁ」毛布から父の声が返ってきた。居間を見渡すと、空の酒瓶が隅に並んでいる。
「ないみたい」
「・・・そうかぁ」
それっきり返答がなくなり、父も動かない。
暫し無言の時が流れた。漂ってくる空気が、重苦しくて耐え難い物へと変貌してゆく。
振り返って母を見た。いや、見ようとした。いるはずなのに見えない、闇が深すぎる!
そして・・・そして考えないようにしてきた事が、頭に浮かんでこびりついて離れなくなった。
声が出ない。悲鳴を上げたい位なのに・・・自分の想像はそれ程までに恐ろしい。
・・・闇に包まれた家は、命を吸い上げてしまうのだ。
方法は何だって構わない。包丁でも縄でも、命を奪う事は簡単だ・・・自らの手であれば。
私は・・・私は無性に怖くなった。
居間の襖を開け放したまま、台所の戸を壊れる程壁に叩きつけて開いて・・・逃げ出した。
廊下に何か置いてあったら、きっと思い切りぶつかって泣きべそをかけた事だろう。その拍子に気持ちを落ちつけられたかも知れない。
母が顔を出して「大丈夫?」って言ってくれる。父が「バカだなぁ」って笑う・・・そんな日常が、今一番の望みが叶う。
でも暗闇の中に、私の足を止める物は何も無くて廊下はお終いだった。
階段を駆け上がる時も、躓く事は無かった。見えなくて危ない筈なのに、簡単に2階に着いてしまった。そして部屋だ。私は結局ここに逃げ込む事しか出来ない。一目散にベットへと飛び込んだ。
父と同じように布団を頭まですっぽり被ると、身体がガタガタと震えていると自覚した。
心の中は激しく泣き喚き、悲鳴に近い叫びをあげる。
(ダメだダメだダメだ!お父さんもお母さんももう保たない!!明日にでも最悪な方法を選んでしまうかも知れない!お父さんとお母さんがいなくなっちゃうなんて、そんなの嫌だ!嫌だ嫌だ嫌だ!!
その後、私はどうなる?後を追うの?怖くて死にきれなかったら!?
あいつらの言うがままに働かされるの?どんな仕事!?そんなの嫌だ!嫌だ嫌だ嫌だ!!
じゃあどうする?昼間の話を引受ける?お腹の中に豹を入れるんだよ!!
そんなの怖い!死ぬより怖いよ!!嫌だ!嫌だ嫌だ嫌だ!!なにもかも嫌だ!嫌だ嫌だ嫌だーっ!!)
布団を被ったまま、声を殺すようにして泣いた。だいぶ泣いた。
闇は夜よりも暗くて、私の心を埋め尽くすのは真っ黒い絶望で。
昼間に子供の頃や学生の頃を回想した事は、余計に今の自分を惨めにさせた。
(どうして?どうしてこんな事に?)という出口が見えない迷路の様な問い掛けだけが頭の中を巡る。何時間も嘆き続けたように思う。涙は枯れて、身体の震えも落ち着いてきた。
布団から顔を出して、真っ暗い部屋を見つめた。
「でも」
静寂の中で、私は私の独り言を聞いた。意識なく発した言葉だった。
・・・どうしてそんな事を口走ったのか?後になって考えても分からなかった・・・
「でも、死んじゃうのかな?ホワイトパンサーの赤ちゃん」
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