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揲の悪い癖だ、すぐに人を信じてしまう。
だまされて仇の城に連れていかれたばかりでもその悪癖は治っていなかった。
先ほどまであれほど強く憎んだ相手だ。
殺したいと願った人間だ。
だが、揲は彼の瞳に一点の濁りも見つけられなかった。男の瞳の中に美しい海が見えた。
その澄んだ瞳を前に揲は成すすべがなく瞬きすらまともにできなかった。
「余を信じるも信じないもお前の勝手だ。信じないのであればその懐に隠し持った短刀で余の首を斬ればいい」
そう言って彼は静かに笑みをたたえた。
先ほどの挑発的な笑みとは違う、穏やかで少し寂しげな笑みだった。
その様子がふと死んだ母の笑みと重なった。
当然のこと、揲は刃を手に取ることはできなかった。彼の首めがけて刃を振り下ろすことはできなかった。
「……お前の言う通りにしてやる」
そう言うと男の顔がパッと明るくなった。良い歳のくせしてわかりやすい人だ。
「ただ、仇を見つけたらすぐにこの手で殺す」
そうか、と彼は面白そうに笑った。
「こちらは守りに徹しなければな」
そう傍らに控える篤驥に呼びかける彼はなんだか楽しそうでもあった。これは甘さだとわかっていても揲が彼に放つ殺意は薄れた。それとは反対にまだ見ぬ『仇』への怒りは膨れ上がるばかりであった。
揲の人生をかけた戦の火ぶたがここに切られた。
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