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最初に目に入ったのはまん丸の月をうつす湖の水だった。扉の向こうはその湖に架かった木の橋へ続いていたのだ。
侍女にうながされおそるおそる足を踏み入れると床の木がギギッと鳴いた。その音さえも心地良いものに思えて自然と口元に笑みが浮かぶ。
ふと橋の向こう岸に目をやるとそこにはこじんまりとした質素なたたずまいの建物が見えた。もしかして、と揲はその建物を指さす。
「あそこが私の屋敷?」
「ええ、この屋敷は長らく主がいなかったので少しさびれてはおりますが良い場所ですよ。どうでしょう、お気に召されましたか?」
侍女の少し心配そうな問に揲は一も二もなく頷いた。こんな良い場所で寝るのは久しぶりだ。
屋敷の中はいたって簡素なものだった。
大きさとしては豪農の家と同じくらいといったところだろうか。長年使われていなかったようだが手入れは行き届いており、蜘蛛の巣一つ見当たらない。
板張りの床もなつかしい故郷の家のようで気に入った。
「ここ紲御殿にはこういったお屋敷が十六ほど集まっております。
分家の菊宮家、薊宮家、藤宮、そして宗家と各お家が東西南北四つのお屋敷を構えて奥方や姫君をこちらに住まわせるのです。
この屋敷は菊宮家の西のお屋敷——『西之菊屋敷』と呼ばれております」
真梶の説明に揲は首を傾げた。
「私はその菊宮家とやらの縁者ではないぞ」
良いのでございます、と侍女は揲の自室だという部屋に布団を敷きながらピシャリと言った。
彼女が良いと言うならばありがたく使わせてもらおうと思い、揲もとやかく聞くのはやめることにした。
その後、侍女は部屋を出ていき揲は一人文机に頬杖をついて外の満月をぼんやりと見つめていた。
十日前に王宮の地下牢で見た月と同じ。味方に恐れられて監禁され、絶望の淵で見ていた月と同じ。そう思うとなんだか変な感じがした。
あれからいろいろなことがありすぎて自分でもよくわからないまま全力で今も走り続けている。
『俺があんたを檻からだしてやる』
その言葉を信じ、裏切られ仇の城へ送られた。
仇だと思っていた人間が仇ではなかったことを知った。
この城のどこかにいる仇を探し出すことを選んだ。
再び人を信じることを選んだ。
「これでいいのかな……?」
小さな呟きは宙をあてもなくさまよって消えた。
揲は稀珀家が滅びたその日からずっと孤独だった。
そんなことを考えているといつの間にか眠っていた。
それもせっかく侍女が敷いてくれた布団の上ではなく文机に突っ伏して。
胤国は極夜、つまりは夜が永遠と続く国であった。
だから朝になって侍女が起こしてくれてもにわかに自分が眠っていたとは信じられなかった。
よくこの国では死に際に「一度は日が昇るさまを見たかった」という人がいるけれど揲はそう思ったことなどない。
夜は優しかった。今がもう亡い人との日々を昔のことだと感じないからだ。
文机を寝床にしながら揲は夢を見ていた。
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