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「揲」と鐐の柔らかい声が聞こえた。顔をあげると真剣な表情をした彼はジッと揲の瞳をのぞき込んだ。
「臆病者には先陣がつとまらない、とでも思ったか?」
「はい」と揲はうなだれるように首をコクリと動かした。
置いていかれてしまうと思った。風のようにはやくどんどん前へ進んでいく彼は立ち止まることをしらない。
置いていかれないように走って、走って、走らなければいつのまにか揲は一人取り残されてしまうだろう。
独りぼっちは辛くて、寂しい。
何もない空虚な空間にいるようで気持ちが悪い。
それに鐐にだけは置いていかれたくなかった。
幼いころから「この人を支える」と心に決めていた。
これは甘さだ。けして鐐にはダメなところを見せたくないのに、いざその暖かい声をかけられるとポロポロと本音があふれ出す。
「怖い、と一度思うと体が固まって……うまく動けなくなって……自分でもよくわからなくなる。こんなんじゃダメだとわかってるのに……」
「それでいい」と鐐は揲の肩にやさしく触れた。
「お前は臆病で絶対に死に急がないから、帰ってくると信じられる」
鐐はニコリと笑った。
この人はいつも欲しくてやまない言葉を与えてくれる。揲にとって紛れもなく特別な人。
揲も顔をあげて笑みを浮かべた。「ようやく笑ったな」と彼が頭をくしゃくしゃにしてなでる。
髪が乱れてもいつもなら恥ずかしいのにその時はそれが妙にうれしかった。
「よし、夕雩め。首を洗って待ってろよ!我らが直々に成敗してやる!」
調子に乗った誰かがこぶしを振り上げてそう叫び、皆がどっと笑った。
夕雩に稀珀家が滅ぼされる二月ほど前のことだった。
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