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1青田美佐
呼び鈴が鳴っている。かまわずテレビを眺めた。バラエティー番組。お笑い芸人のくだらない馬鹿話が止まらない。
スナック菓子をつまみ上げた。口の中に放り込んだ。再び呼び鈴が鳴った。美佐は不審に思いながらも立ち上がった。
「はい」
声を上げながら、玄関へ向けて歩いた。
「どなたですか?」
「夜分恐れ入ります――」
男。中年。
扉の向こう側から聞こえて来たのは、まるで聞き覚えのない声だった。耳にしただけで、扉越しにヤニの臭いが漂ってくるような、とてもいやな声だった。
「警視庁から来ました。村尾と申します」
「警察が、いったいなんの用でしょうか」
「ちょっと事件がありまして」
「事件?」
「ええ、そうなんです」
「私、なにも知りません」
美佐は話を切り上げようとしたが、警視庁の村尾とやらは、どうやらそれをあっさり許すようなチョロい男ではないらしい。
「ええ。ですから、それをお知らせに」
笑っている。
嘲られている。美佐は、そう感じた。
「いやね、お宅にも関わりがあるんです。この地域一帯の建造物が無差別に落書きされてるんですよ。お宅の玄関扉にも酷い落書きがされてますよ。お手間とらせて申し訳ありませんが、扉を開けて被害を確認していただけませんでしょうか」
ドアのレンズ越しに外を覗いてみた。ステンカラーコートを羽織った男が警察手帳を掲げていた。五十代。くたびれた外見だが、目だけは鋭く爛々としている。
美佐はドアチェーンを外し、ゆっくりと扉を開け放った。それから身を乗り出して扉の外側を一瞥した。扉も外壁も綺麗なものだった。落書きなどどこにもない。美佐は扉の陰に身体を引っ込めた。自然と扉は半分ほど閉まりかけたような形となった。
「青田美佐さんですね」
村尾は警察手帳を懐にしまった。
「そうですけど。それより、落書きは?」
「ああ、無いみたいですね。本官の勘違いでした。本当にどうもすみません」
「ふざけないでください」
扉の取っ手を握り締め、力いっぱい手前に引いたつもりだった。しかし扉は少しも動かなかった。村尾の磨り減った靴先が扉の端をしっかり押さえつけていた。美佐は汗ばむ右手に力を込めて、取っ手を手前に引き続けた。
「それ以上ドアを引っ張ると、本官の足先が潰れちゃいますよねえ。公務執行妨害。傷害。どちらでもお好きなほうを選んでくださいな」
村尾は薄ら笑いを浮かべながら、まるで値踏みでもするかのように美佐の胸の辺りをねっとりと見つめていた。美佐は諦めて扉から手を離し、そして玄関の土間に立ち尽くすより他なかった。
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