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「ついでですから、ひとつお訊きしてよろしいでしょうかね」
「なんです?」
大袈裟にため息してみせた。しかし村尾は意に介したふうもない。
「二日前の水曜日の夜八時。どこでなにをされてたか、お聞かせ願えませんかねえ」
「一昨日の夜八時ですか」
美佐は考えるそぶりをしてみせた。しかし本当は考えるまでもなかった。
「家にいました。独り暮らしだから、それを証明してくれる人はいませんけど」
「確かにご自宅にいらした?」
「ええ。自宅にいました」
「変ですねえ。いや、奇妙だ」
村尾は首を傾げた。
「二日前の夜八時。緑ケ丘三丁目の交差点の角のコンビニ店内のトイレを利用したあなたの姿を、店内の防犯カメラがしっかりと捉えてるんですよ」
「人違いじゃありませんか」
「いやあ、人違いとか勘違いとかじゃありませんね。防犯カメラの映像とあなたを照らし合わせたところ、人相と体格が完全に一致してます。あなたはコンビニのトイレを利用してますよね。いや、あなたは利用してるんですよ。間違いありません」
「記憶にありません」
「ほう。記憶にない?」
村尾の硝子玉のような目が大きく見開いた。白眼が血走っている。真っ暗な洞穴のような瞳孔に狡猾そうな鋭い光が走った。
「青田さん、あなたのご職業は?」
「刑事さんには関係ないでしょう」
「セクシー女優、ですよね?」
セクシー女優。あるいはAV女優とも言う。
「もう辞めました」
嘘ではない。とっくに引退している。
美佐は十九歳の誕生日を迎えてすぐにAV女優としてデビューした。出演本数は二十四本。二十歳の誕生日を迎えた先月になってようやく一年間の契約期間を終え、アダルト業界とはきっぱりと訣別したのだ。
美佐は身分的には単体女優だった。契約していた事務所は業界最大手だった。ピラミッド状のヒエラルキーを前提に成り立つアダルト業界。その中でも単体女優と呼ばれる階層はピラミッドの頂点に位置する。所属事務所が全力を注いで売り出してくれたこともあって、美佐は不動のポジションを得ることに成功した数少ない人気女優のひとりだった。
美佐の引退作は、乱交と呼ばれる種類のやや過激な内容の作品だった。
撮影を終えた後、美佐は撮影スタッフたちから花束をもらった。なぜだか涙が止まらなかった。花弁が眩い光に揺れていた。生まれてこのかた、こんなに美しい花束を目にしたことがなかった。それなのに、それを部屋に飾る気分にはどうしてもなれなかった。美佐は駅のホームに花束を置き去りにした。後ろも振り返らず、真っ直ぐ前を見て足早に歩いた。ホームに響く靴音だけが、いつまでも美佐の耳の奥に残り続けた。
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