15井岡直喜

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ジャガーXJのドアに手を触れてみた。ドアロックはされていない。車内を探り、窓拭きに使うものであろうタオルを何本か見つけ出した。それらを左手に巻いて止血する。しかしその甲斐もなく血液は止めどなく溢れ出し、左手の痛みはまるで引かない。涙腺がぶち壊れてしまったかのように涙が止まらない。 右手の甲で目の端の涙を拭い、今度は周の身体を探る。百万円の札束は手つかずのまま残っていた。 「俺のカネだ。返しやがれ」 死人となった周に、声を枯らしながら怒鳴りつけてやる。 カネを奪い返し、懐に入れる。井岡のものだったコルト・ディテクティブスペシャルは手に取ってみるまでもない。周はすでに全弾を撃ち尽くしている。弾倉内は調べて確かめるまでもなく空っぽだ。井岡は予備の弾丸を持ち合わせていないから、もはやコルトはただの鉄の塊だ。持ち帰るのは無意味だから、それは潔く諦める。 免許証や財布は、はじめから奪われずに井岡のジーパンのポケットの中にある。 左手が痛む。タオルでの止血も虚しく、鮮血が次から次へと滲み出して止まらない。 左手の、今は存在しない指先が激しく痛むのが、なんとも言えず不可解だった。井岡は痛みに泣きながら首を傾げた。なぜそんな不可思議な現象が起きるのか、どう考えてもわからない。それよりも、この場所から一秒でも早く立ち去らねばならぬ。 井岡は吐き気を堪えながらふらふらと歩き、何度も転びながら四人の遺体とジャガーXJから離れて遠ざかった。 ちくしょう。左手が痛む。左手が痛い。血が滲み出して止まらねえ。寒気が止まらねえ。もしかしたら俺は、このまま出血多量で死ぬんかな。ちくしょう。こんな東北の得たいの知れない僻地で死んでたまるかよ。 はじめから、どうにもこの街は好きになれなかった。八戸県だか八戸村だか知らねえが、もう二度とこんなところには来ねえぞ。こんなクソみたいな街、二度と来てたまるか。 俺は東京へ帰る。東京へ帰るぞ。 金田、金田、金田、金田、金田。待っていろよ金田。たとえこの先何十何年かかろうと、おまえを殺して斎藤兄貴の無念は必ず晴らしてやる。その汚い首を洗って待っていやがれ。それから寛政会本部と飛竜連合会の外道ども、てめえらもだ。このまま俺が大人しく泣き寝入りすると思うなよ。 復讐の狼となった井岡は、月明かりの下で激しく吠えた。髪は逆立ち、目尻はつり上がり、瞳孔はギラギラと妖しく燃えていた。 だがこのときの井岡は、左手の痛みと怒りによってなにも見えなくなっていた。周らを殺害したこの惨劇の場に、決定的な遺留品を残してしまったことにまるで気づいていなかったのだ。コンビニで購入した野球帽と、そして多数の指紋、それに頭髪、唾液――DNA情報――をジャガーXJのトランクの中に残していたのだった。さらに、辺りに撒き散らした多量の血液……。これだけの物的証拠を犯行現場に残留した井岡を警察が見過ごすはずもなかった。 井岡直喜は、周ら四人の中国籍の男を殺害した罪で、瞬く間に全国指名手配されてしまった。井岡の長い冬の始まりだった。
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