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女の心象
……女は名を告げようとはしない。ただ夢之介に向かって両膝を地につき、頭を垂れるだけで、横合いから佐々木が何度素性を糾しても一向に口は閉ざしたままだった。
……砦の内を制圧した與作は、虜囚の女人たちを庭に集め話を聴いている。倒した賊どもはおそらくなにが起こったのか判別できずに、武器を手放しそのまま成り行きを窺っている。戦意はなく、むしろ、安堵の表情を浮かべているのは不可解ですらある。てきばきと與作は男たちにも話しかけ出した。
漫然として佇んでいた佐々木主水は、ちらちらと夢之介の顔をみては視線を逸らし、すぐにまた夢之介を見る……そのおどおどとしたありさまはまるで叱られた童児のようである。
「どうされたのです……?」
謎の女から事情を糾すために説得したかった夢之介は、隣の佐々木の煮詰まらない態度が気にかかって声をかけた。
「ど、どう……と問われましても……」
「だからはっきりと言ってくれませんか? やらなければならないことが山積みですから」
「さ、さきほど、徳川宗家……と女が口走ったようだが……」
「あ、そのことですか……わたしは切腹した信康の孫にあたります」
「の、信康……とは、かの岡崎三郎どのの?」
「まさしく」
「ぎゃ、で、では……」
話を振ってしまったのは逆効果だったようで、よけいに怯える佐々木の処置に困り果てたとき、うずくまっていた女が、
「倒幕のために……」
と、やや甲高い声をあげてやりとりを遮った。
「どうかあなた様の御力をお貸しくださりませっ」
「な、なんと……! 一体、どこの誰の差し金ですか! 加賀の前田? それとも島津?」
「いいえ、妾は大名家に仕える者ではございませぬ」
「まあお立ちなさい。話はそれから……」
「いえ、いまが御決断のときでございます。さもなくば……」
「ん? さもなくば?」
「あなた様はどちらの側からもお生命を狙われ続けます」
答えながらゆっくりと立ち上がった女の背丈は、佐々木とさほど変わらない。長くのびた髪をまるめて上に乗せているようにみえるが頭巾に隠されてはっきりとはわからない陽が落ちた薄闇のなかでは女の歳の頃合いも見定め難い。痩せてはおらず、とはいえ寸胴型でもない。地女のような身なりだが、顔が黒ずんでいるのは炭や泥を塗っていたのであろう。日暮れとはいえ、陽の影ではない肌の黒さを、夢之介はその女の背後に潜む者の周到さに重ね合わせてみている。
大名には仕えていないと本人は言ったが、それが武家ではないという意なのか、大名より上位に位置するということなのか、まだ夢之介には判断のしようがなかった。
「佐々木氏、とりあえず篝火を炊いてくれませんか?」
向きをかえ、佐々木に告げると、かれはあたかも主君の命を拝受したかのごとく、
「……ぎょ、御意」
と、恐れ入ってそのまま門のほうへ駆け出した。
それを見届けてから、女に向かって夢之介は言った。
「……どちらの側からもと言ったようだが、かりに、いまの幕府を倒したあとはどうなるのだね、どうするのだ」
「あなた様が将軍位にお就きあそばされればよろしゅうございます」
「ただそれだけでは、頭が据え変わるだけでなんの変化も起こせないとおもうが……」
「いえ、江戸ではないところに、新しい幕府をお創りになられればよろしゅうございます。そのことを、切に願っているお味方もおられるのでございます……」
「江戸以外の地、というのか?」
「さようでございます。京師に幕府をお開きあそばされませ。かつて足利公も京の地におられました。帝門と手を携え、この国をお導きなされるとよろしいではございませぬか……」
さながら古書の講義をするかのごとき女の口調は、夢之介の耳には心地よく響いた。京師というのは、京の都を指す雅語である。帝門……は、ほかでもない天皇家のことであったろう。
とするならば、この女は帝が遣わされた使者なのだろうか……ふたたび夢之介は、染まり来る未知の闇から逃れるかのように、しばし瞼を閉じずにはいられなかった……。
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