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或る女
夢之介の記憶の抽斗に大事にしまっていたのは、ある女人の思い出であった。
いやむしろ、容姿であるとか、乳房のたわみであるとか、揺れた腿の色彩であるとか、陰毛の濃淡の程合いであるとか、そういったものは陽炎のように不確かで曖昧模糊としていたのだが、それでも、女の名だけはしっかりと憶えている。
……簾
と、言っていたはずである。
簾のレン。
扇子の先で、素っ裸の夢之介の背に、そろりと文字をなぞった女の筆つかいの玄妙なその感覚だけは、いまでもはっきりと思い出すことができた。
突然、簾の名がかれの頭裡に蘇ってきたのは、懐かしい三島の宿を通りがかったからである。
簾に抱かれた郭楼はすでになかった。
幕府が許可制にしたためで、その条件枠からはずれた私娼窟は、一斉に取り潰された。あくまでも表向き……のことではあるのだが。
「どうかなされましたか?」
物憂げな夢之介の表情を察した従者の一人、菊結が耳元で囁いた。とはいえ、菊結は夢之介の立つ井戸場からは二十歩ほどは離れている。
いつもの接音の術である。
「……つけてきている曲者の殺気が鋭くなりましたゆえ、ご留意くださりませ」
なおも菊結はことばを重ねる。
……そんなことはとうに夢之介も気づいている。それを知っていてなお、説明口調になるのは、菊結の悪い癖である。
菊結はまだ十四、五の女忍だが、男装している。元服間もない童顔の若侍姿で、一方の夢之介は月代も剃らず、あたかも軍学者か仕官していない儒者のように長髪を伸びたままにうしろで束ねている。菊結は中刀一振りを帯びているが、夢之介は脇差だけである。
大刀の代わりに、長い鉄笛を差していた。いや素材までは第三者にはなんとも不明である。ただ竹でないことだけは、その照り具合と敵の一閃を受け止めたとき、
カキーン
と、金属音が響くことからも察せられる。
姓はめったに名乗ることはないが、徳川……である。かつて、複雑な事情から切腹させられた家康の嫡男、信康の孫にあたる。
吾こそ徳川の本宗家だぞ……と声を大にして叫びたいところだが、誰も聴くものはいないであろう。すでに家康は逝去し、将軍秀忠は三代将軍の座を嫡男の家光に継がせるべくその体制強化に余念がない。徳川の治世の基盤、いうまでもなく江戸幕府の機構は着々と整いつつあったのである。
いや、さにあらず……とは、附人の三次の口癖である。
『……まだまだ、これからでおじゃろうよ。取り潰された大名の家来どもがわんさかとおりますぞ。豊臣恩顧の浪人どもも、いまは百姓、行商に身をやつしていようと、いざ事あらば、必ずや若様のもとへ馳せ参じましょうほどに、の』
と、持論を展開する。
京の公卿の地人となり、いわば公卿侍だった三次にはいくつもの名と顔があるようで、いまは四国へ渡って、徳島の蜂須賀公を味方に引き入れようと画策しているはずである。
「襲ってはこまい」
ふいに夢之介がつぶやいた。
「こちらの様子をうかがっているだけだろう」
ほとんど唇は動かない、動かさない。
「そうでしょうか……五人……いるようです……」
「いや殺気を放っている者は、一人しかおるまい」
「ですが、どうして、夢さまは、わざわざ三島宿に舞い戻ろうされたのです? 人目に立つ東海道より、日本海側を船で西進したほうが敵も手出しはできますまいものを……」
いまさら言っても詮無き事と菊結も思ってはいても、どうしてもそのことが口に出てしまう。
あまりにも夢之介は無防備すぎる。いや、菊結の目からみれば、暢気すぎるだ。内に幕府打倒の炎を燃やし続けている丈夫には到底みえない。この場に三次がいれば、
『おなごに心を遷すとは、笑止千万……!』
と、叱ってくれるだろうが、いまはその居ない三次の代役を自分が務めねばと菊結は、顔をしかめた。それに、追手は、あきらかに幕府隠密らしい。しかもかれらの動きは巧妙で、自らの存在を隠そうとはせずに付け狙っているその手法は、忍びの常識からは逸脱していて、そのことが菊結を焦らせてもいる……。
「約束したのだよ……」
「は……?」
「必ず会いに参ると……」
「どなた様とのお約束でございましょう?」
「簾という名の芸妓……」
「ふ……娼妓、でございましょう?」
「ん……? はて、呼び名はよくは分からないが……」
「夢さまにとっては忘れ得ぬ秘め君なのでございますね」
「約束は……約束だから」
夢之介はそれしか口にしない。
……五年前の約束というものが、一体、どんな内容なのか、菊結は聴かない、聴きたくもなかった。
おそらくは、閨の上での、その場限りの戯れ言であったかもしれず、あるいは身請けの約束なのか……と、そのあたりまで想像が広がったとき、
(まさか……そんなことは……)
あるまいと、菊結は頭裡に拡がったおぼろな光景をハッと打ち消すのだった。
総じて女忍は早熟である。
物心つくかつかない頃には、すでにおなじ褥で童児たちと寝て過ごす。童子から少年への身体の変化をつぶさに観察するのも、重要な修行の過程というものであった。それは性の芽生えといった情感的なものではなく、むしろ、獣の本性、いやその本能がもたらす変化というもののありようをつぶさに感得し、熟知することがとりわけ女忍には必要なのだった。
三島宿は江戸日本橋から数えて、東海道第十一番目の宿駅にあたる。
南北を走る下田街道、甲州道をつなげるための工事の半ばにあった。
……この時代
まだ、参勤交代は制度化されてはおらず、箱根にも関所は設けられてはいなかった。のちに、三島宿は江戸防衛の拠点としての意味合いが強くなっていくのだが、いまはその過渡期にあたり、江戸へ向かう者(江戸へ下る……という)、京をめざすもの(京へ上る、という)などがごった返し、浪人たちの往来もことのほか多かった。
昨晩、夢之介一行が泊まったのは久保町で、二日前に先駆けしていた藤十郎が、投宿先を見つけていたおかげで、かろうじて野宿を免れた。
それほど人が多かった。
工事の人夫、荷駄方をはじめ、大工、左官、鍛冶師、鋳物師、行商人などのほか、浪人たちも大手を振ってひしめき合っている。
『前に来たときより、賑わいが……』
昨日も夢之介はそのことに驚いてばかりいた。
『さようですなあ』
と、そのときも藤十郎が応じたはずである。
藤十郎はかなりの年配なのだが、足の運び、からだの筋の重みと厚みの具合からも、見る者によっては忍び崩れだとすぐにわかるはずである。
この老忍と若い菊結の二人が、いまの夢之介の連れであった。いやもっと正確にいうならば、藤十郎の手下が数人、身なりを変えて夢之介一行を目立たないように護っている。
つつつと藤十郎が夢之介の隣に立った。かれは菊結のように、離れたところでも会話ができる接音の術はつかえない。
「……な、夢はん……や、ほら、菊結はんが往生してますわいな。追手が複筋おりんさるようですなあ」
ことばの抑揚からは上方や山陰訛があって、額や頬の傷痕からも藤十郎という老忍の半生の凄まじさがうかがわれもする。
複筋……というのは、なにも敵の人数が多いという意ではなく、どうやら一行を追ってきた者らは、それぞれ別の雇い主がいるということであったろう。
「ほ……複筋……とは、また、妙な……」
「……そんな呑気なことをいうさかい、菊結はんもはらはらしてまんねやで。あれだけ、早発ちしたほうがよろしゅうおますとすすめたのに、こんな時刻になってしもうて……」
「人通りが多いほうが、なにかと都合がいいのではないかな」
ぽつりとつぶやいた夢之介のその一言に、藤十郎は感嘆の声をあげた。
「おお、なるほど、なるほど。さすがは夢はんや。このまま、人混みにまぎれて街道を突っ切るという算段ですな」
「いや、まだ逃げるわけにはいかぬ。約束がある……」
「おなごとの口約束でっしゃろ? そんなもん、信じてどうしますねん。菊結はんが案じるのも無理からぬことやね」
「いや、簾女との約束だけではないのだよ」
「ほ……? それはなんでっしゃろか? 初耳ですわ」
「わたしの禅の師がおられるのだ……」
と、言いかけた夢之介は、くるりと背を返すと、鉄笛を手に持ち左右に振った。
カキーンと音が流れた。
「や……!」と、叫んだ藤十郎は見た。
矢が夢之介をめがけて降り注いできたのを……。
「ひゃあ……!」
藤十郎が叫んだ。けれどいささかも動じてはいない。
そのまま夢之介は商家の路地を抜け、中庭に出た。
一方は山側へ連なる道、一方は海側へと抜ける人工池がある。
(おや、ここは……)
と、夢之介は飛来してくる矢を避けつつ、そんなことを思い至っている。
(わざとおれたちをここへ誘ったのか……)
見るとすでに藤十郎の姿は掻き消えていた。敵に向かって駆けていったのであろう。
「夢さま……おかしなことに……」
菊結の声がした。けれど彼女の姿はない。
「……敵同士がいきなり争い出しました」
「………?!」
「いまのうちに……」
そこで菊結の声が途絶えた。
ハッと身構えた夢之介は、おのれに向かって突き出された長槍の刃を寸でのところて鉄笛で打ち払った……。
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