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確執と叛意
……この時代のことを読者のためにもう少しだけ詳しく述べておく必要があろう。
丁髷はまだそれほど一般的ではなかったことはすでに述べておいた。武士だけでなく町人、農民の間にもチョンマゲが拡がっていったのは、元禄時代以降のことだとおもえばいい。それまでは、高禄武士を除いては、おもいおもいに髪を束ねたり、布切れで頭頂を覆いかくしたりしていただけである。また平安時代からの名残りである頭巾、頭冠をかぶっていた職人や町人たちも多かったはずである。
また、一日三度の食事が定着していったのも、元禄時代以降のことであって、それまでは一日二食が普通で、これは公卿なども同様で、夜に空腹をおさえるために甘菓子などを食したことが記録に残っている。
この物語の時代は、元和三年(1617年)を想定している。
関ヶ原の戦いの17年後のことである。
前年四月に家康が逝去くなった。
このとき、幕府が最も警戒したのは、豊臣ゆかりの大名や浪人の叛逆であった。かれらがかりに尾張徳川家や加賀前田家を旗頭に担ぎ上げでもすれば、とうてい勝ち目はなかったからである。
主な街道には大名の立ち入りを厳禁し、また、江戸に来ることを禁じた緊急令が出された。戦国大名の生き残りともいうべき伊達政宗もまだ健在で、幕府は北の伊達、そして加賀の前田家、尾張徳川家の三大大名の存在を最も畏れ警戒したのだ。
幸いにしてこのときはさしたる騒動は起こらなかったものの、いまなお江戸方は、この伊達、前田、尾張の動向を密かに探っていた。同時に、各藩政に携わる重臣らのなかに親幕府派の空気をより醸成させるため、婚姻や引き抜きなどありとあらゆる手立てを講じていたのである。
……ちなみに、尾張藩自体、立藩されてまだ十年そこそこの歴史しかないのだ。初代藩主の徳川義直(家康の九男)は、ようやく十八歳になる。家康の直命で八歳で藩主になったのである。
城(名古屋城)も、公儀普請といって、築城当時、豊臣恩顧の大名が蓄えた財貨を減らす目的と徳川への忠誠度を見極めるため、あえてかれらに造らせたのだった。
そういう波乱の臭いを多分に含んだ空気のなかに、夢之介はじめ、菊結らが生きていることだけは知っておいていただきたい。
さて、話を戻そう。
役人への申し述べを了えた夢之介が板段をあがって二階の板廊に佇んだとき、藤十郎がそっと近寄って、山田太郎左衛門の誤認の内容をざっと伝えた。
「あの頃は……わたしも若かったから、やりとりのはずみで、つい、亡き島左近さまの名を借りてしまった……」
「いや、それはいいんですわ。菊結はんも、まあ、内心はともかく、いまは十分納得済みでおまっしゃろ。このことには触れんほうがよろしゅうおま」
「そ、そうか……」
「ですが、あの山田はんは、えらい拾いもんかもしれまへんなあ」
「拾い者……?」
「酒の相手をしていた菊結はんが聴き出してくれたんやが、どうやら、山田はんの父親も叔父も、みんな関ヶ原で死になさったようですわ。なんや胸のなかには、幕府に対する敵愾心のようなもんが宿ってはるみたいやから、これを機縁に……」
藤十郎はみなまで言わない、追い詰めない。菊結と同様に、長年の流浪旅のためにともすれば夢之介の大志が崩れるのを畏れていたのである。
「わかっている……仲間を増やすべし……ですね。三次さんにもよく説教されました」
「そうでございましょ?」と、いまはやりの語調になって藤十郎はにやりと笑った。
「……むしろ、わたしは山田氏とは顔を合わせないほうがいいのではなかろうか。どこでぼろが出るやもしれぬゆえ、ここは、菊結とあなたに任せて……」
「なるほど、それはいい考えかもしれまへん。相手を焦らしてやるのですな。山田はんは江戸へ下っていなさるようで、かりに江戸で屋敷を拝領されるとなれば、こちらの拠点にもなりましょうからな、いまは、そっとしておきましょか」
藤十郎は合点がいった顔付きで夢之介に目で答えて踵を返した。夢之介も階段をそっと降りはじめた……。
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