新たな敵の影

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新たな敵の影

 翌朝、すでに山田太郎左衛門とその(とも)らの姿はなかった。西からの雨雲が張り出してきており、出立(しゅったつ)を早めたらしかった。 「夢殿(ゆめどの)にはくれぐれもよしなに……と(しゅ)が申しておりました」  一人だけ残されたのは、太郎左衛門の弟子の中でも一番幼い若衆で、前髪を額で切り揃えた少年だった。  名を、尾木久保(おぎくぼ)與作(よさく)といった。 「おぎくぼ……? 四文字姓とはまた珍しきことかな……」  夢之介はそう受けながらも、“夢殿”と呼ばれることにはむず(むずがゆ)さを覚えずにはいられなかった。奈良の法隆寺ではあるまいし……と、幼き頃、数年過ごしたかの地での辛苦の日々を思い出すと、妙に気がざわついてくるのだった。 「はい、古き時代、ときの藤原(ふじわら)右大臣家から賜った姓だと伝わっています」 「それはまた由緒ある……では、もともと武家の……?」 「鎌倉の御代には、地頭(じとう)の補佐のようなことをしていた一族だったらしいです。郷士(ごうし)のようなものですが、その後、応仁の乱れ以降に没落して……」 「ならば、與作(よさく)なりに苦労してきたのだな」  夢之介がなんの(てら)いもなく、“與作”と直截(ちょくさい)にわが名を呼んでくれたことに少年は目を輝かせて謝意を表したようである。おのれの存在価値を探るのは、まずは(つか)える相手に名を覚えてもらえるかどうかで決まるといっていい。そういう時代であった。 「いいえ、みんなそうです。……とりわけ、関ヶ原以降、相次(あいつ)いで大坂の戦役が起こり、まったく想像できないことが起こりましたゆえ。昨日までの知友が、突然、(やいば)を向けてくる……子どもの頃からそんなことをみんな経験しております」 「確かにそうだな。與作は、関ヶ原には……?」 「いえ、その翌々年に産まれました」 「さようか。山田(うじ)の一族の方も、関ヶ原では大勢が亡くなられたそうな」 「はい。(しゅ)は、酔えばそのことばかりを憂いておいでです。世が世ならば……と」 「なるほど。世が世ならば……か」  しぜんと夢之介の声の調子が落ちた。世が世ならば、かれは徳川本宗家を継ぐべき存在であったからだ。  それが傍流へと将軍位が渡り、もはや手が届かないところまで来た。家康が健在ならば、かつての嫡男信康(のぶやす)の嫡孫である夢之介をあだや(おろそ)かにはしなかったであろう。  家康との対面を画策していた時期もあったが、重臣(おとな)本多正信(ほんだまさのぶ)板倉勝重(いたくらかつしげ)らの家康側近に(はば)まれ、それは叶わずじまいであった。いやむしろ、家康側にしてみても、『いまさら名乗り出て来られても詮無(せんな)き事……』と、その理由も背景も、いまの夢之介には理解できる。  創業者家康の最大の役割というものは、自分が生きているうちに豊臣家の滅亡を企図(きと)し、すべての世の批判、ありとあらゆる非難中傷をわが身ひとつで受け止め死んでいく……ことであったろう。そしてその難事を見事に仕上げてみせたのだ。  だからこそ、かつて自分の存在を無視しようとした徳川家重臣たちの胸中もある程度は理解できる二十五歳という年齢に達した夢之介は、一方で、このまま時代というものに流されて生きていくのも一興(いっきょう)などとすらおもうこともあった。  それが(そば)にいる菊結(きくゆい)や藤十郎には歯痒くてたまらないらしい。そのことも夢之介にはよく(わか)るのだ。  かりに……と、夢之介は考える。  家光が三代将軍位に()く前に、伊達政宗なり、前田家なりがなにか事を起こそうというのなら、その流れに乗ってやってもいい……ともおもうのだった。けれど、いまの夢之介には、その大波を自らの手で掻き立て、創り出そうといった気概はまだない。なんとなれば、いま、與作が述懐したごとく、再び大乱ともなれば、どれほどの血が流されて、どれほどのいのちが失われていくのか……その恐ろしい仮想現実のありようこそが、夢之介の言動を厳しく律していたともいえる。  いわば、いまの夢之介は、遅れて来た青年のような存在であり、また、迷える仔羊(こひつじ)のようなものであったかもしれない。  これを世故(せこ)()けた三次(さんじ)藤十郎(とうじゅうろう)は、優柔不断、軟弱といった四文字、二文字で片付けてしまう。突き詰めて考えれば考えるほど、夢之介には身動きが取れなくなってしまうのだった。  そんなおりに偶然に出逢ったこの與作などは、夢之介にとって新鮮な息吹を与えてくれる存在であったろう。しぜんと歳の離れた弟に接するような表情になる。それがまた與作には嬉しいらしかった。 「おまえの武器は……」と、夢之介は與作の背に斜交(はすか)いに差された二本の竹筒をみて、不思議そうにたずねた。 「あ……これは、(しゅ)が考案された武具の一つです」  答えながら與作は、それぞれの手に持った竹筒をひょいと左右に振ると、 シャキ と音が響いた。筒の先には槍の穂先に似た刃が現れた。 「おおっ、二刀流か……!」 「これを一つに合わせると……ほら、ごろうじよ、たちまち長槍になります」  なるほど、一方の刃先に筒の尾がピタリと納まる。 「おおっ、初めて見たよ」 「はい、(しゅ)はこういうことを考案されるのがお好きなのです。この世に鉄砲が現れたとき、すでに槍の時代は終わった……と(しゅ)はおもわれたようなのです」 「なるほど……でも(あきら)めず、(くさ)らず、次の何かを模索する……ふふふ、いまのわたしにそれが必要なのだな」 「は……?」 「いや、こちらのこと。わたしも見習って、工夫をせねばの、そう思わさせられたよ」  素直に気持ちになって夢之介は、先刻までの重たい気持ちが吹き飛んだようにおもえた。それが嬉しかった。 「どうやら與作はわたしの師のようなものだな」 「そ、そのようなことは……」 「山田(うじ)が與作をわたしの側に残してくれたのは、なによりもありがたい」  すると、 「なにをおふたりでこそこそと……」 と、菊結(きくゆい)が現れた。その左右には藤十郎(とうじゅうろう)配下の者が数人居た。  かれは一足先に尾張への道を直走(ひたはし)っている…と、菊結(きくゆい)が告げた。 「尾張へ……か! ふたりで決めたのだな」 「はい。夢さまがまたぞろ見目麗(みめうるわ)しき女人に心を奪われる前に……と。四国へもすでに使いをやりました。(みぃ)さまにも尾張へ向かっていただこうとおもいまして……」 「さようか。尾張には、菊結(きくゆい)の叔母上がおいでになられるそうな」 「はい。柳生兵庫助様の奥方……」 「その剣名だけは聴き及んでいるが、はたして、どういう御仁(ごじん)であろうかの」 「夢さまのお父様に近い年齢ですから、このさい、さまざまな事を教してくださることでありましょう」 「まさか藤十郎とおまえは、江戸柳生と尾張柳生を無理にでも戦わせようとしておるのではあるまいな」 「いいえ、こちらがそう仕向けずとも、すでに見えないところでは死闘が……!」 「な、なんと?」 「実は……それが山田さまのご助言でもありました。昨昼、われらを襲った連中のなかには、幕府隠密……おそらくそれは江戸柳生でありましょう。そして、その動きを牽制してわれらを助けてくれたのが尾張柳生ではあるまいかと、そう申されておられました」 「なに……?! では、弓矢を放ってきた(やから)は……?」 「それはまだわかりかねますが、(とう)さんが言うのは、仙台の忍びではないかと……」 「仙台……!」  仙台といえば、伊達政宗のほかに指すべき武将はいまい。 「なぜ、伊達(だて)忍びまでがわたしを狙う……? ふうむ、いや、まだ、もう一組の集団がいたはずだ」 「ええ……? 江戸、尾張、伊達のほかにも! それは気づきませんでした」 「あのとき、山田(うじ)の配下の者だとばかりおもうておったが、いま、改めて考えると、動きから察してまた別の一団だったと断言してよい。いま、ようやく気づいたのだが……」 「では先を急ぎませんと、道中が……」 「菊結、おまえには別に果たしてもらいたいことがある」 「え……? まさか、ついてくるなと……?」 「加賀に赴いてもらいたのだ」 「そ、それでは、前田家の動向を探れとお命じになられるのですか?」 「第五の謎の一団は、わたしには、加賀の前田か島津(しまず)か……のように思われてならないのだ。いやなに、なんの確証もないことだが、どうやら我らが知らないところで、大きな騒動の芽が生長しつつあるようだ。それを見極めねば、わたしは声を大にして名乗りを上げることはできまいとおもうのだよ」 「な、ならば、つ、ついに、ご決断を?」 「早まるでない。決断するためにこそ、知らなければならないこと、知っておかねばならないことがある。そうおもったまでのこと。腐らず、あきらめず、何事も工夫あるべし……と、いまのいま、この與作から教わったところだからな」  言いながら笑う夢之介の表情をしばし見つめてから、 「さ、よ、う、で、あ、り、ま、す、か」 と、菊結(きくゆい)は、短く息を切るように言った。  不満なのではなく、いやむろん、考えるところはあるにせよ、夢之介が率先して動こうとしていることに菊結は感じるところがあった。せっかくの夢之介の思念の深さ重さを断ち切ってはならない。  そう菊結はおもい、 「う、け、た、ま、わ、り、ま、し、た」 と、もう一度力強く頷いた。  そのやりとりを見ていた與作が、クックッと笑った。けれどこの声は夢之介の耳には届かない。むしろ、夢之介は何年か後のおのれの姿がふっと目の前に現れたような幻影をみていたのだ。  その旅たちの一歩が、吉と出るか凶と出るかはまだ誰にも判らない……。
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