同行二人

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同行二人

 この年(元和三年)、六月から九月まで、将軍秀忠(ひでただ)は江戸には居なかった。  六月十二日、江戸を出発した秀忠は、二十九日には京・伏見(ふしみ)城に入っている。  七月七日、伏見城で猿楽(さるがく)を催し、諸大名、家来衆を饗応(きょうおう)。  八月十三日、ポルトガル人が伏見城で秀忠に謁見。  八月二十四日、秀忠、オランダ人の渡航を認める。  八月二十四日、イギリス船長、リチャード・コックスが秀忠に謁見し、国書を呈してイギリスの商圏拡張を要請。  八月二十六日、朝鮮使節が秀忠に謁見……  ……すなわち、まだ時代は〈鎖国〉の世ではないのだ。  それどころか、この時点では、徳川将軍家は事実上の日本国王として、外交政策・儀礼のすべてを取り仕切っている。ある意味で、これら一連の行事は、あたかも明治維新期の外交政策とも似ていて、海に向かって開かれた国づくりを志向していた一面も否定できない。もっともその裏には、海外に目を向けた貿易立国を強行に主張した伊達政宗の存在も大きかったに相違ない。  このように江戸初期の実相というのは、後世の理解をはるかに超えた、より多元的で、より躍動感に溢れた時代空気感とともに、戦国乱世のという、おそらくはそれまでに経験したことがない、多分に複雑怪奇に(うごめ)く人間心理の錯綜(さくそう)といった実態を見逃してはならないであろう。いわば、この時点では、世界諸国に先駆け勇躍する(だい)なる機会が訪れていたのである。  それを押し(とど)めて逆戻り(先祖回帰のようなもの)させてしまったのは、三代家光(いえみつ)の政治的判断になるのだが、それはこの物語よりかなり(のち)のことである。  ところで。  江戸と京は、里程(りてい)にして、124里8丁離れている。  約487.8km。  夢之介と尾木久保(おぎくぼ)與作(よさく)の二人は三島宿から沼津への道を急いだ。距離にしてわずかに一里半。約6キロメートルで、すでにそこは駿河(するが)国なのだ。  言わずと知れた旧今川(いまがわ)領内である。  ……夢之介のなかには今川一族である曾祖母、築山御前(つきやまごぜん)にまつわる哀歌の調べが脈打ち続けている。家康の正室となり、信康(のぶやす)と亀姫(奥平家に嫁ぐ)の一男一女をもうけた。  いうまでもなく、信康は夢之介の祖父にあたる。  ちなみに、信康の〈信〉字は、織田信長の〈信〉である。同様に〈康〉字は、家康。つまりは当代の輝ける武将、信長と家康ふたりの(いみな)を持った信康は、岡崎三郎(おかざきさぶろう)と呼ばれた。岡崎城で育ち、事実上の城主になったからだ。  ちなみに、三郎という呼び名は各地で頻繁に用いられてきた。それは、〈さぶらふ〉(候ふ、侍ふ)は、もともと身分の高い貴人の仕えるという意味を持ち、さらに尊い空間、場所といった吉祥語としても使われたからだ。まさしく、縁起のいい詞辞(ことば)であって、やがてこの〈さぶらふ〉は、(さむらい)そのものを指す用語になった。  信康はまさに、“三郎”の原意の人そのものであった。  その勇猛ぶりは、“摩利支天(まりしてん)にも似たり”と、家康麾下(きか)の武者たちを感嘆せしめたほどである。けれども家康が、桶狭間に散った今川義元(よしもと)亡きあとの駿河、遠江(とおとうみ)を奪い、三河と(あわ)せて独立大名としての基盤を築くにつれ、正室築山御前との仲は冷めていった。やがて、同盟主の信長から、共通の敵(武田勝頼)との内通(ないつう)謀叛(むほん)の疑いをかけられ、築山御前は斬首、信康も切腹を命じられたのだった。  ……果たして、信長がそのように命じたのかどうかは、いまとなっては確かめようはなく、むしろ、急速に組織が肥大化しつつあった当時の徳川家中(かちゅう)の内紛といった見方も否定はできまい。親信長派と反信長派の単純な二極対立を軸にしつつも、そこにさまざな利害が家臣を巻き込んでいたその(あお)りを()らった……という見解にも首肯(しゅこう)の余地があろう。夢之介自身、そのような家中内部の確執がもたらした悲劇ではなかったか……ともおもうのだ。  それだけに血脈の原点ともいえる駿河、遠江の風は、夏というのに肌寒いなにかを含んでいるようにも感じられてならないのだ。  血脈というものが目に見えるものならば、おのれのそれは一体どんな色彩を帯びているのだろうかなどと、夢之介は駿河領内に足を踏み入れてから物思いに(ひた)ることが多くなっている。じつは夢之介の素性については、與作は(じか)に告げられていた。本来の徳川嫡流の宗家がここに居るということに、まだ與作は慣れないものの、この地に来て感ずるところはあるのだろうとあえて口を差し(はさ)むことはしなかった。  それもまた旅の道行きのありようの一つであったかもしれない。  街道には三島宿と同様に、道の整備のために駆り出された農民たちの姿も見られたが、その数に比して監督する武士は極端に少なかった。 (みんな京へ駆り出されたのだろう……)  将軍の上京が、一時期とはいえ、ひとの流れを変えていたのだ。むしろそのことが、夢之介には吉と出た。役人からの誰何(すいか)もなく、蒲原、由比、興津、江尻……と足を進めた。  ときに與作と喋り、ときに黙して語らず、あたかも一方が片方の透明の杖にでもなっているような二人の歩みであった。  それまで不思議と追手の影一つ見えなかったのに、藤枝宿に来たとき、 「しばし、お待ちあれかし」 と、声がかかった。  なんとも芝居がかった物言いである。  町人でも工夫でもない。  夢之介と同じような軍学者然とした身なりで、けれどかなりの年配のようであった。  腰には大刀一つ。刃幅の広い戦刀(いくさがたな)であったろう。当然、納めるべき(さや)はなく、獣革を幾層にも重ねて造ったらしい長い袋に刃をおさめていた。 「手を貸してもらいたいのでござる」  あっけらかんとその野武士が汚い歯をみせて唾をかっ跳ばせた……。 
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