雨月ノ君ハ 冷タイ唇

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 雨脚はまだ強い。だが遠くの西の空は明るさを感じるので、この雨もそう長くは続かないだろう。本日の内見はこの四軒目で終了だが、店へ戻るにしても、もう少しこの部屋で雨宿りしても良さそうだ。  キッチンやトイレ、風呂場を順に見せながら、「白井君てホラーが好きなの?」と訊ねる。 「急に何だい?」 「さっき言ってた『雨月物語』、ホラー小説だったよなぁって思い出して」  雨月物語は江戸時代後期に上田秋成(うえだあきなり)が書いた怪奇短編集で、ホラーが苦手な茜にとっては、それも強く印象に残った理由の一つだ。 「別にホラーが好きなわけじゃないよ。雨月物語も全部好きだったんじゃなくて、その中の『蛇性(じゃせい)(いん)』て話が好きで……」 「あ……それ思い出した。内容話してくれたよね? 蛇が人間に化ける話だって」  蛇性の淫は、簡単に言えば美女に化けた蛇が人間の男をたぶらかす話だ。彼女の執念はすさまじく、最終的には道成寺(どうじょうじ)の僧侶に退治されるという、歌舞伎の題材にもされてきた『道成寺縁起(えんぎ)』に結びつく作品でもある。ちなみに道成寺縁起の蛇女は更に執念が凄まじく、道成寺の鐘の中に逃げ込んだ男を鐘に巻き付いて焼き殺すくらいだ。 「蛇も執念も怖いけど、純粋に一人の人間を好きになっただけかもしれないって言ってた白井君の説、私好きだったなぁ……」  そう言って彼を見ると、見つめ返す眼差しが何だか熱を帯びているようで、鼓動が否応なくドキリと跳ね上がった。彼の内見を担当する度、当時の気持ちを思い出さないよう必死で抑え込んできたのに。彼の瞳が益々赤みを帯びているようで、茜はその目に吸い込まれそうだった。 (初恋は初恋でしょう? これは内見。私は仕事中!) 「実は僕、君に伝えたいことが……」 「ろ、ロフトの上も確認してみる?」  同時に言葉が重なって、彼は豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしたけれど、「そうだね」と力なく微笑んだ。  細い木製の階段に足を乗せる度、ミシリ、ミシリ…と音が鳴る。中学の頃より更に身長が伸びて百八十センチ近くある白井が乗れば、もしかして不測の事態が起こるのではないかと若干冷や汗をかきながらも、ロフトの上まで登りきる。  座高ほどしかないロフトの空間は三畳程の広さで、ここには布団を置くくらししか出来ない。もしくは下のクローゼットを普通に使い、このロフトこそ書籍を置くのにいいかもしれない。 「ねぇ白井君、ここに本を置いても……」  提案しようとして振り返るとそこには、ちょうど梯子を登ってきた彼の顔が思っていた以上に接近していて、思わず体が固まった。  遠くで落雷音がし、肩がビクリと反応する。数秒遅れで室内が雷光に照らされるが、視界は半分以上彼の顔の陰で覆われていた。急にサーッという雨音の音量が増す。  ゆっくりと重なる彼の唇は、日陰のコンクリートのようにひんやりとしていた――
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