雨月ノ君ハ 冷タイ唇

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「何故貴方のような方がこんなところに?」 「彼女には昔、命を助けて貰った恩があってね……」  聞けば、茜が中三の時に転校生として現れるよりもずっと前、彼は小さな白蛇の姿のまま神社を出ようとしたことがあったらしい。それは外の世界を知りたいという純粋な好奇心からだったが、彼の姿はこの世界で非常に珍しく目立つので、神社周辺の水路で幼い男児たちに見つかり、石を投げられてしまった。  そこへ当時園児だった茜が通りかかり、男児たちを追い払ってくれたのだと言う。「生き物を虐めちゃいけないんだよ!」と。  それ以来彼は神社で大人しく水神を護っていたが、茜のことがずっと気になっていた。あの時のお礼を言いたいという想いが募り、水神に願い出て人の姿に化け、茜と共に中学生活を送るのを許されたのだと。 「それが何故今になってまた人の姿に?」 「彼女に危機が迫っていたからね」 「危機?」 「あぁ、彼女の命が危ないと感じた。でもそれは杞憂(きゆう)だったよ」  そう言って白蛇はペロリと二股の舌を向ける。普通の人間には、白井が忌一を指差しているようにしか見えないだろう。 「君の中には強大な異形が封印されているね。それを感知したらしい。だが君には味方が二体いる」  忌一のジャケットの内ポケットから小さな翁が顔を出し、左の袖口からはニョロンと鰻のような頭が飛び出した。 「俺の式神の桜爺(おうじい)龍蜷(りゅうけん)ですね」 「そう。特に封印を担うその龍蜷とやらは、我神(わがかみ)と力の根源を同じくする。我神の力が及ぶ限り、その封印が解かれることはないだろう」  そう言うと彼は席を立つ。忌一が「彼女にはもういいんですか?」と訊くと、 「君が居るなら大丈夫」 と、安堵したような、寂しそうな表情を残して店を出て行った。 *  ファイルを手にした茜が急いで戻ると、店には既に白井の姿は無かった。応接コーナーでは店長と忌一が、和やかにお茶をしている。 「白井君は?」 「帰ったそうだよ」  残念に思いながらも、受付カウンターでファイルを片付けていると、忌一が後ろから近づいてきて「もう内見には来ないってさ」と言う。 「え、何で? 忌一、彼に何か言った?」 「いや、特には」  白井を目にした時の忌一の態度が気になっていた。幼い頃から彼のそういう態度を何度も目にしてきたからだ。  白井に何を見たのか、彼の姿はどうだったのか、問い質そうと思ったがやめた。青春の淡い思い出も、先程の胸のときめきも、全て泡のように消えてしまいそうで。  見えない何かが見えてしまう従兄の存在が、本当に憎らしかった。 「もしかして、彼と何かあった?」  忌一の心配そうな視線が、何となく自分の唇へ向けられているような気がして、咄嗟に背を向ける。 「何かって? 内見してきただけだけど」  極めて冷静に返すけれど、右手の人差し指と中指は、あの時のひやりとした彼の感触を追うように、唇へと触れていた―― <完>
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