氷の上を歩く

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「きみは、氷の上を歩けと言われたら、それに従うか?」 「質問を変えよう。みんなもう、この氷の上を渡って行きましたよ、あなたも早く、と言われたら?」  この国の人を騙すのは、本当に簡単だ。 「みんなやってるよ」 「みんなこうしているよ」  そう言えば、多少乱暴な要求でも受け入れる。  私は今日も同じように言う。  地に足をつける前から、足の裏が冷えてゆく感覚が怖い。それは始まる前から恐怖そのもので、苦痛である。私はそれが自身の弱志によるものではなく、事実自然的な危険信号であることを知っているのだが、そうではない人間があまりに多い。  かわいそうに、列をなす全員が、黙ってそれに耐えているのだ。  曰く恐怖心は恥そのものであると。  思い切り目を瞑り、べたりと足をつく。徐々に広がって、急速に体温が下がってゆく感覚は、所謂痛覚と同等だろうか? 寒さが恐怖と、更に痛みと連結して、逃げたい、逃げたいと叫ぶ自分を、必死に押し殺すのだろう。後ろが詰まっているから。みんなそうだから。  それは正義たり得るか? その答えを誰もが伏せたがった。  きっと楽をしたいのだと私は推測した。ごちゃごちゃ考えているうちに自分の体温が苦痛を緩めてゆく。それは救いのように感じられるが、果たして本当にそうだろうか?  その一歩を、やっとの思いで地から離そうとすると、地に張り付いた足裏がまた痛む。苦痛に顔が歪む。この苦痛が何のために存在するのか、彼らは考えたことがあるのだろうか?  この国の人は過程を隠したがる。自分の努力を他社に披露することを、「はしたない」と非難する。そのせいで、成功体験のみがそこら中で輝いている。それが弱者を照らし、彼らは「みんなと同じ苦痛」の先に希望を見るのだ。  ある日、あの人は現れた。  私はいつもと同じように彼に問いかけた。 「きみ、この氷の上を歩いていきなさい。みんなもう出発してしまったよ」  そうすると彼はこう答えた。 「いやです。ぼくはそんなことはしません」  驚くほど冷たく、ぶっきらぼうに。  意思のある若者でも、情熱のある馬鹿でもない。それでも彼は私の要求を拒否した。その間にも列が詰まっている。  彼のことを邪魔だとでもいうように、横目で見ながら、彼の後ろにいた者が氷の上に足をつける。それに続いて、彼を避けるように、何百人も続いていった。 「そんな人、他にいませんよ。みんなと違うことをして、どうするの。さあ、列に戻って。そんなことでは、私もきみも、困ってしまうよ」  私は彼にまた、問いかけた。  ぎこちない足取りで、苦しそうに続く、あの行列を指さしながら。 「ならば、僕は違う道を探します」  彼は身を翻し、氷を避けるように歩いていってしまった。  みんなが乗った氷にひびが入って、割れかけていた。  みんなどうすることも出来ず、少しずつ崩壊してゆく氷を眺めながら、それでも列の形を保ち続けた。  そこにもう、彼の姿はなかった。
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