0人が本棚に入れています
本棚に追加
わたしは彫像の手に洗濯紐をひっかける。慎重に、傷つけないように当て物の具合をたしかめながら。紐のもう一方の端はべつの彫像の首にまわす。それからタオルや靴下をかけた。嫌な作業だがまちがいは許されない。まちがえば数時間でこれらの美術品は消滅するのだ。それは全職員が知っている。
絵画担当の職員が肖像画を細工している。額縁のすぐ外にソフトドリンクのステッカーを貼ると、その人物が商品をあこがれのまなざしで見つめているようになった。広告ポスターの出来上がりだ。
具象画はその絵に応じた矢印などを置いて標識にしている。湖の絵の下に配置された矢印が中庭の池を指している。ちょっと苦しいかもしれない。
抽象画は苦労している。絵のまわりに壁紙やカーテンを置き、値札をつけて模様の見本のように見せかけるつもりらしい。うまくいくだろうか。
天気予報だと、来週にでも塵の悪魔どもがやってくる。いまのところだれも退治できない悪魔。世界中で戦いが繰り広げられている。武器は知恵。負ければ人類の文化的資産である美術品が失われる。
もとはと言えば、悪魔なんかじゃなかった。都市の美化のために開発されたナノロボット。無数の極小個体が集合知性と自己複製機能を持ち、落書きや放置ごみと判断したものにとりついて清掃、分解してしまう。
テストはうまくいった。都市の一街区が見る間に美しくなった。清掃ナノロボットは屋内や指定された特定の場所では機能を止める。また、集合知性はそれが落書きやごみなのか、標識などの必要なものなのか判断する。
その調子であれば、作成した研究チームは名誉と財産を手にしただろう。しかし、いまになって考えてみれば、ナノロボット自身に自己複製機能を持たせたのはやりすぎだった。
複製時の誤りは修正されるが、ほんのわずかのプログラムミスがその誤りを増大させた。どのような場合も機能を止めず、それらが落書きやごみと判断したものすべてを消滅させ始めた。
文字通り、すべてだ。
美的感覚や鑑賞眼を持たないそれらに落書きやごみと判断されれば、価値ある美術品でも容赦なかった。完全気密室への収容が試されたが、ナノサイズのロボット一体ですら混入させないのは事実上不可能で、成功例はほとんどなかった。わずかな成功例をまねようにも、そんな膨大な予算はない。
また、分解したごみを資源にして指数関数的に増殖したロボットは気流に乗ってその国と風下の諸国にいきわたった。一週間もかからなかった。気象学者たちは、世界中にいきわたるのもすぐだろうと予測した。
その事実が明らかになった時、研究チームの学者たちは自殺するか、精神を病んで入院した。現在、発表された論文や残された資料を元に駆除や機能停止の方法が研究されているが、複製のたびに変異し続けるロボットの進化に追いついていない。
多数の貴重な美術品を失った「闇の一週間」が過ぎたのち、利口な者が対処法を見つけた。ナノロボットの判断基準は、実用かそうでないか、のただ一点だ。この基準だけは失われなかった。なら、消されたくないものは全部実用に見せかければいい。
その考えはうまくいった。彫像は、ちょっと変わった形の物干し台になった。具象画は標識や広告ポスターに、抽象画は壁紙見本になり、ナノロボットは実用と判断して分解しなかった。
わたしの勤める美術館でもそれをまねしようと決まった。小さな美術館だが、この町出身の芸術家の作品を多数所蔵している。すでに故人となっており、失えば取り返しはつかない。
ナノロボットが駆除か機能停止されるまで、わたしたちはがんばり続ける。しかし、自信はない。美術品の鑑定や解説ならいくらでもするけれど、作品をなにかに見せかけるなんて、きちんとできるだろうか。
さて、そこで、みなさん。ここでわたしからの真剣なお願いです。美術品を実用に見せかけるにもネタが必要なのです。美術館へ来て、偽装のためのネタを提供してください。どうかお願いします。
(了)
最初のコメントを投稿しよう!