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じいちゃんと遺書
じいちゃんが退院した。
脳梗塞で倒れて、しばらく入院していた割には元気だった。
そりゃそうか、若い看護師さんに鼻の下伸ばしてたんだから。だけどその看護師さんに、入れ歯を捨てられたというのには驚いた。
じいちゃんは入れ歯だ。いわゆる、総入れ歯。
食事の後にティッシュにくるんでおいといたら、ゴミと間違えられて捨てられてしまったらしい。
脳梗塞の後遺症でただでさえ利き手の動きが鈍っていたのに、入れ歯がなくなり食べにくかったのか、俺が見舞いに行ったときには、ばあちゃんにあーんで食べさせてもらってた。
ほんとは看護師さんに食べさせてもらいたかったんじゃ、と一瞬本気で思ったが、じいちゃんもばあちゃんも幸せそうだったから、言わずにおいた。
そんなわけで退院したじいちゃんにご飯を食べさせるのは、ばあちゃんの仕事になりつつある。
それでもばあちゃんも年だから、いつまでもその役目を続けるわけにもいかないだろう。
我が家の家族会議で、じいちゃんの処遇が決定した。ひとつ、じいちゃんは新しい入れ歯をつくること。ひとつ、日中はばあちゃんの負担を減らすために、デイサービスに通うこと。
「雅博、あんた、じいちゃんの歯医者の送り迎え任せたわよ」
なぜか、家族会議で俺の役目も決まってた。五人家族であるうちは両親も共働きで、自然と日中自由が効くのは、大学生である俺に限られる。俺の意見を言う暇もなく、母の一声。
まあ、俺もじいちゃんをひとりで外出させるのは心配だったから、仕方ないとは思うけど。
「ほう、ぱしゃひろ、はたせたぞ」
おう、まさひろ、まかせたぞ、ね。入れ歯のないじいちゃんの通訳役を押しつけられた感は否めない。俺、通訳は得意じゃないんだけどなぁ。
近所の歯医者はお年寄りであふれてた。高齢化が進んでいる証拠ととらえられなくもないが。もともと住宅街のなかにあるから、平日の午前という時間帯に家にいる年齢層に患者が偏っているのだろう。
先生は親父と同じくらいの年齢で、俺も小さい頃にはお世話になった覚えがある。じいちゃんの入れ歯ももともとはここで作ってもらったもので、じいちゃんも気に入っていた。
優しいしゃべり方をする先生で、俺も先生に悪い印象はない。
久しぶりにあった先生は相変わらず優しそうで、半身の麻痺を庇うように杖をついたじいちゃんを見て、ほっとしたように目尻にシワを寄せた。
「泰造さん、ご退院されたんですね」
近所にもじいちゃんの入院の話題は、伝わっていたのだろう。まあ、自宅から救急で運ばれているだから、当たり前か。
「ほのとほり、ふぇんふぇんしてほりますふぁ」
「このとおり、ぴんぴんしておりますわ、って。しゃべりはこんな感じですけど、退院も早かったんですよ」
「入れ歯をなくされたと聞いたので、心配していたのですが、それはよかった。食事もままならないと回復も遅れてしまいますからね」
「しょこは、やしゅこにしぇわになった」
うん、康子ね、康子。
「そこは祖母がしっかりサポートしていたので、大丈夫だったみたいです」
俺の言葉に、先生は苦笑した。
「奥さまもお元気なんですね」
「ばあちゃんは、世話のやけるじいちゃんがいるから、死ぬに死ねないって言ってました」
「ふん、わしゃもやしゅこをおいてぇは、死ぬに死ねぬわ」
じいちゃんは力説するが、入れ歯の入っていない萎んだ口ではいまいち締まりがない。
「仲が良いのはいいんですけど。いつまでも祖母に祖父の食事を任せておくわけにもいかないので。できる限り早く入れ歯を作って欲しいんですけど」
「ええ、それは構わないのですが……」
「なにか気になることでも?」
「ご家族で介護をなされているなら、関係ないかもしれませんが、入れ歯に名前をお入れしたほうがいいか、と思いまして。病院や介護施設などで入れ歯の取違いも多いので、そうした施設の利用が増えるようでしたらお入れしましょうか?」
言いながら先生は診療室の戸棚から、入れ歯の見本を出して見せてくれた。ピンク色の樹脂の中に、名前の書かれた紙を入れる仕様らしい。
「だってさ。じいちゃん、どうする」
「しぇんしぇい、それふぁ、なまふぇ以外でもおっけぇーですかな」
「名前以外でもいいんですか?」
じんちゃんと言葉を要約して、先生に伝えると、先生は迷惑がることもなく答えた。
「ご住所等や電話番号をいれられる方もみえますよ」
なるほど、迷子札代わりか。入れ歯は生活から切り離れないものだから、紛失や認知症の徘徊対策にもなるのだろう。
じいちゃんの場合は絶対前者だな。寝るとき以外あんまり外したとこみたことないけど、一回病院で無くしてるわけだし。
「じゃあ、じいちゃんのも、住所入りで」
「しょんな子供みゅたいなこと、できん!」
迷子札と思ったのはじいちゃんもいっしょだったらしい。杖の先で、不安を表すようにどんっと叩かれた。地味に痛い。でもーー。
「だったら、じいちゃんはなにを入れたいんだよ」
「わしゃはな、やしゅこありがとう、あいひゅてるといれたいんじゃ」
いやいや、康子ありがとう、愛してるって。プレゼントのアクセサリーじゃないんだし。
「そもそも、入れ歯じゃ意味ないだろ。誰が見るっていうんだよ」
「べつに、わしゃ、生きとるうちにしょれを見てほしいとは思っとらん。脳こぅそくでもう死ぬのきゃと、思っとぅた。かりゃだも動かんで、なにゅも残せんと思うとぅた。けんど、こりぇがありゃ最後んときゅも、その思いをのこすことができゅんだろ」
じいちゃんにとって、入れ歯が遺書ってわけね。つくづく締まりがない。でもそれがじいちゃんらしいっちゃ、らしい、か。
そう思うと、なんだか笑いが込み上げてきた。耐えられず喉をならしながら、肩を揺らすと、つられて先生も笑いだした。
「言っときゅが、わしゃ恥ずかしいきゃら、きゃくしとくわけしゃないんだそ。生きゅとるうちは、こんなことせぇんでも、口でつたえりゃいいんだきゃら」
じいちゃんは、そんな俺たちの行動をどうとったのか、大きな声で自分の行動の正当性を説いている。
うん、だったらじいちゃん、長生きしてばあちゃんにたくさんその思いを伝えてくれ。
それまでじいちゃんの遺書は、俺と先生とじいちゃんとの秘密だ。
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