スランプ

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スランプ

「こらーッ! 北斗、手を抜くな手を!」  普段、あまり大声を出さない石井先輩に怒鳴られて、はっと我に返った。  翌日から再開した練習の二日目…といっても、昨日と今日しかまともな時間は取れないが、午後から始まった最後のシートノックの最中にも関わらず、ぼんやりしていたらしい。    外野に転がる打球をバットで示しホームから喚く石井先輩に、帽子を取って頭を下げた。 「も一本、お願いします!」 「しっかりしてくれよ、守備の要なんだから」  そんな事を言いながら打つボールは、俺の守備範囲を的確に突いてくる。  右へ、左へと飛んで来る白球を追う瞬間が、何よりも好きだった。  けど今、あと一歩踏み出せない自分に、はっきり言って困惑していた。  体調は万全、とは言えないまでもそう悪くない。むしろ合宿中よりゆっくり眠れて、リラックスしすぎなくらいだ。  それなのに、打球を追う時のボルテージが少しも上がらない。  こんな事、今までにもなかった。その事実に自分自身、戸惑ってしまう。 「どうした北斗! お前なんか変だぞ」  ……変、確かに変だ。  捕球しそこなった時、次は絶対取るという意気込みまで消えてしまってる。  三十本ほどノックを受けた時点で半分以上後逸していた。  それほど厳しすぎるコースじゃない。踏み込んで捕ればそのまま送球できる程度の打球が――捕れない。  石井先輩がノックを止めて、監督を振り向いた。 「成瀬君、こっちへ」  手招きされ、ダイヤモンドを出て近付く俺に、監督が外野をスッと指差した。 「今日はもういいです。外周を走って来なさい」  不調な選手に与えられる別メニュー。  もう何人もの部員が走らされていたけど、俺には初めての事だった。  調子が上がらないのを誰よりも感じていた俺より、周りの後輩の方が騒ぎ出す。  軽く一礼し、グラブを外してベンチに向かうと、関が眉間にしわを寄せ近付いて来た。  いつもなら滑り込みや盗塁で胸元や尻の辺りを真っ黒にしてるのに、球拾いに専念するユニフォームは不似合いなほど白く、その眩しさに思わず目を細めた。 「北斗、どっか具合悪いのか?」 「いや、それはない。ちょっと……えっと、何だったか」  今の自分の状態を上手く表現できないでいると、関がぴったりの言葉を言い当てた。 「『スランプ』、なんて言うんじゃないだろうな」 「そう! それ、そんな感じ」  思わず突き出した人指し指が、パシッと叩かれた。 「『そんな感じ』、じゃないだろうが! 一大事だぜ」  掴み掛かりそうな勢いの関に気圧され、たじろいでしまう。 「大丈夫、そんな深刻なもんじゃない。とにかくちょっと頭冷やしてくる」  手を振って答え、足早にベンチに向かった。  グラブを置き、ついでにバッグの上のスポーツタオルを掴むと、無駄だと知りつつ汗を拭いて、少しだけ息をついた。  簡易のルーフでも、日陰に入ると多少は涼しい。  まだ何か問いたそうに俺を見る関の視線に気付き、タオルをグラブの横に放り投げ、さっさと走り出した。  これ以上追求されると、困る。  関には心配ないように言ったが、『スランプ』なんか経験した事がない。  口に出して言われたら、守備の不調だけでなく、心までクモの糸にでも絡まったような……得体の知れない不安に囚われた。  どう向き合えばいいのか対処法も何もわからず、命じられた通りフェンスの際を黙々と走り続けるしかなかった。  実は一昨日、会議室を出てすぐに参加した自主トレでも、あまり身が入らなくて中途半端に終わってしまっていた。  前日の試合の疲れもあるからと軽めに汗を流し早々に切り上げたんで、一人目立つような事はなかったが、気分は最悪だった。  それに甲子園出場が確実なら、俺にもしなければならない事があった。  バイト先のスイミングスクールに寄り、責任者の片平さんに事情を説明し、休みを延期してもらう。  気が重い事ばかりで滅入ったが、翌日からのバイト再開を喜んでくれた片平さんに断りの電話一本で済ませるのは嫌だった。  随分いい加減なバイトになってしまうが、できるなら『クビ』になりたくはない。その為、自主トレ終了後、久しぶりに反対方面の電車に乗ってマリンパークに向かった。  それだけを済ませて家に帰り、約束通り夕飯は作ったものの箸は進まず、瑞希にも加納の肩の故障の件を簡単に話しただけで終わった。  詳しい事がわからないから他に言いようもなく、弾む話題でもなかった。  俺としてはそれより玉竜旗の事を聞きたかったが、瑞希の方が福岡への遠征と稽古の疲れが出たらしく、風呂から上がってみるとクーラーの程よく効いた俺の部屋のベッドの中で、すやすやと気持ち良さそうに寝息を立てていた。  朝は、夜ゆっくりできるか聞いてたくせに、自分の方が先に寝てしまうなんて、らしいというか何と言うか……  そんな事を思いながら電気を消し、ベッドの端に腰を下ろして、枕元に灯るオレンジの間接照明の中、しばらく寝顔を見詰めていた。  瑞希とのんびりできたのは玉竜旗大会に行く前、二十五日の夜。  もう一週間近く、まともに会話していなかった。  あの日より前も俺が合宿でほとんど家にいなかったのに、三日は出発の準備や壮行会等で練習にならないし、その翌日にはもう出発。  大阪での組み合わせ抽選会や甲子園での練習、入場行進の練習もあるとか。  限られた日数、すべき事の多さとあまりの慌しさに出発前からすでに息苦しさを感じている。  決勝戦が終り、乗り込んだバスの重苦しい空気の中でもそれ程落ち込まなかったのは、インターハイ本戦に臨む瑞希のコンディションをベストに持っていけるようできるだけのフォローがしてやれる、そんな事を考えていたからだ。  それに、玉竜旗大会を見れなかった代わりに、全国大会は観戦できるかもしれないという期待もあった。  たった数時間の、うたかたの夢となってしまった、淡い願望―――。  額にかかる前髪を払い傷跡に指先を伸ばすと、触れたのがわかったのか小さく身じろぎ、こちらを向いた。  ついでに腕を伸ばし、その辺にある物を抱え込もうとする。  俺のタオルケットまで取られそうになり慌てて引っ張ると、手繰っていた瑞希の手が俺の腕を掴んだ。  安心できる温もりを手にしたからか、掴んだ腕を離そうとしない。  必死にしがみつく瑞希が、哀れで……愛しかった。  きっと両親を探している。  それがわかるから、無理に引き剥がす事なんかできない。  横になり自由な右腕を瑞希の背に回すと、掴んでいた手の力が僅かに緩み、首筋の辺りに頬を摺り寄せてきた。  眠れないかも……  そんな事を心配しつつ、俺にも疲れが溜まっていたんだろう。  いつの間にか睡魔に取り込まれていた。  そして翌朝、昨日は八月一日。  顔を見るなり、「誕生日おめでと」と瑞希から爽やかすぎる満面の笑顔で祝福された以外は、いつも通りの日常が待っていた――はずだった。  俺の守備に、はっきりとした乱れが生じるまでは。
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