束の間の休息

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   温い湯に浸かり身体の筋肉をほぐしていると、外の脱衣室のドアを小さく叩く音が聞こえた。  そろそろ…というか、恐る恐るといった感じで開けられたドアに、溜息を一つ吐いて呼びかけた。 「――『覗くな』って言ったろ」 「だって……もう三十分以上経ってるよ、心配になるだろ」 「心配? お前じゃないんだ、のぼせたりするか。大体、夕べから溜めてある湯だぞ」 「そうじゃなくて、…あの、北斗、その…大丈夫?」 「!!」  何を言い出すのかと思えば。  ……訊くなよ、そんな事。答えられるわけないだろ。 「――久々のまともな風呂だから、ゆっくりしてるだけ。もう上がる」  そう返事をして、勢いよく立ち上がった。 『お前も男なら、それくらい察しろ』  と、言えないのが……辛い。  ザバッと大波が起きて、スモークガラスに俺の身体が映る。  瑞希は慌てて出て行くだろう、と思いきや、 「そう、ならよかった」  平然と答え、「俺さ…」と、まだ何やら話したそうにする。  ったく、少しは気を遣え!   こっちは裸なんだぞ、出られないじゃないか。  心の中で悪態を吐き、黙ったまま浴槽の後始末をして時間稼ぎをする俺に、 「――九時に部活始まるから、八時半には家出るんだ。その前に一緒に朝ご飯食べたいんだけど、あの…まだ怒ってる?」  アクリルのドアを挟み、そんなお願いをしてきた。  これは了解の返事を返すまで、引き下がりそうにない。 「……わかった。いいよ、俺もなんか腹減った」  覚悟を決めてドアを引き、素の自分を隠しもせず脱衣室に出ると、瑞希が驚いたように目を見開いて、そのまま視線を下に移した。  どこを見てるんだ、どこを!?  内心、動揺しまくって――裸で出たらさすがに退散するだろうと思っていた俺の読みは、(はがね)のような瑞希の精神構造の前に、あっけなく玉砕した。  それでも表面上は何とか平静を装い、バーに掛かったバスタオルを力任せに引っぱって、いつもと同じ、頭から順に拭いていく。  そんな俺を目を逸らしもせずじっと見つめる瑞希に、言いようのない不安を感じた。    何なんだ、一体!?  瑞希が変だ。  さっきの脅しが効きすぎたんだろうか?    いつもと違う様子……反応に、密かに狼狽していたら、 「北斗、人に見られてて平気なのか?」  俺を、まるで変質者か何かのように言う。  冗談なんかじゃない真顔での問いに、本気で腹が立ってきた。 「別に」  な訳ないだろ、この馬鹿!   早く出て行け、俺がまたおかしくなる前に!!  そう怒鳴りたいのを必死に堪え、瑞希の存在は無視する事に決めて、濡れた身体を拭いていく。  その間にもあいつの視線を文字通り肌で感じ、また身体が熱くなってきた。  ……も、ほんと勘弁して欲しい。  誰でもいい、この超鈍感男をどうにかしてくれ!  そんな俺の心の叫びに気付きもせず、当の瑞希はその辺で立ち話でもしてるみたいに、平然と居座り続けた。 「北斗って、ホント無駄のない身体してる。昨日も試合見てて思ったんだ。北斗のプレー、すごく綺麗で、目が離せなくなった」 「綺麗!? やめてくれ」  お前への下心で一杯の俺に、綺麗なんて言うな。 「本当の事だよ」 「なら、今も目が離せなくなってるのか?」 「え、…まあ、そうかも」  小首を傾げて、こっくりと頷く。 「俺は、視姦されてる気分だぞ」 「『シカン』?」 「……いい、何でもない」    こいつにとってここは田舎の温泉なんだ。  初めて一緒に風呂に入った時と同じ。  羨ましそうな、翳りを帯びた()で、浴場から戻った俺を見つめていた時と、何一つ違わない。  廊下での件も、ただふざけただけと思っているらしい。  それは俺が男として扱われてないという事。当然、性的対象になんかなり得ない。 『吉野瑞希』という人間の、人格形成に必要不可欠な一般常識。  それからすれば当然の事でも、改めて認識するのはひどく堪えた。  一刻も早くここから出たい。そう思い下着を取ろうとカゴに目を遣って、空っぽなのに気付いた。  勢いのまま風呂に入ったせいで、後の事なんか全然考えてなかった。 「あー、着替え忘れた。ちょっと取りに上がってくる」  絶好の言い訳ができたのを幸いに、棚から自分のタオルを取って腰に巻き付け、瑞希の前を横切り先に出て行く。  すると、「あのさ」とためらいがちな声が背後から掛かった。 「さっきの……あの、北斗が……反応したのって、やっぱり俺のせい、なのかな」  言いにくそうに遠まわしに訊かれ、あんぐりと呆れて瑞希を振り返り、ぐっと言葉に詰まってしまった。  いつの間にか瞳一杯に溜まった涙が、俺の迂闊さを物語っていた。    瑞希は、本当に何もわからないんだ。  それは誰よりも俺が、一番よく知っているはずだった。  自分の行為が他人に与える影響以前に、どんな事でそうなるのかが。  当然だ、一度も経験してないんだから。  それでも、田舎の同級生と同じ反応をした俺に怯えるより、自分のした事がわからないなりにもまずかったと後悔してるんだ。  その後の俺の態度に、不安になっている。  多分、臨海学校の時の二の舞になるのを恐れ、そうならないようにあえて俺に向き合っていただけだ。  川土手での告白の時と同じ、想像もつかないほどの精一杯の勇気で、俺への恐怖心を必死に隠して。  瑞希の、こういう外見にそぐわない一本気なところに、強烈に惹かれる。  その素直な心、正面から立ち向かう強さに、何度救われてきただろう。    まだ水滴の拭き切れていない身体で、しかもタオルを腰に巻いただけの格好で、瑞希を両腕に包み込んでいた。
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