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「ごめん、瑞希」
「え、…何が?」
いきなり抱き締められ、怪訝な顔で少し見上げる瑞希に、下手クソな弁解をした。
「あれは、瑞希に仕返しされるなんて思ってなかったから、身体が勝手に興奮したんだ」
ものすごくいい加減な言い訳。けど瑞希にはこれで十分なはずだ。
きっと廊下での、俺の強引な拒絶より理解しやすい……と思う。
瑞希の反応は今一わからないが。
「それは……ごめん」
「ああ、瑞希のせいじゃない。あ…いや、瑞希のせいなんだけど、俺もお前の行動に一々動揺しないように強くなる」
この流れで、一体どこを強くすればいいのか……冷静に考えたら赤面モノだが、今はそんな事より目の前のこいつだ。
「とんでもない事をしでかすけど、それがお前のいいところでもあるんだもんな」
「――跡…付けた事、許してくれるのか?」
「元はといえば俺のせいだ。けど別にふざけたわけじゃない。赤みが残るほど打たれた痕が痛そうで、つい口付けたくなったんだ」
「え、じゃあ、あの時の人工呼吸との違いの説明は?」
……細かい事を、よく覚えている。
腕を離し、瑞希の顔を正面から見返して、わざと悪戯っぽく答えた。
「あれは、ただの口実」
「――なら、衝動的って事?」
「そう、衝動的に。それに同じ痕なら竹刀で打たれるよりいいだろ?」
「そうかなあ?」
……ああ、この表情。
眉間にしわを寄せて首を傾げる仕草。懐かしい、みーちゃんのままだ。
「俺はすっごく困ったよ。そんなの付けられてたなんて、全然知らなかったから。北斗も、もうあんな事するなよ。他の部員に誤魔化しきれないよ」
よほど酷い目に遭ったらしい。
その事を思い出したのかキッチンの時以上に頬を染め、唇を尖らせて睨み付ける瑞希に、「悪かった」と頭を下げた。
「じゃあ、服着てきなよ。ご飯、冷めてしまう」
「先に食べてていいぞ、すぐ下りるから」
「うん、わかった」
今にも零れ落ちそうだった涙が、笑顔に変わる。
ほんと素直……というか、正直な奴。
ほっとして、二階への階段を上がりながら、何故か胸にぽっかりと穴が開いた気分になっていた。
本当に純粋で汚れのない奴なんだ。
俺はあいつのそんなところに惹かれていたはずだった。
けど、その想いが、あいつを少しずつ汚しているのかも知れない。
多分、俺が奪ってしまった瑞希のファーストキス。
まだ互いの存在に気付かず苗字で呼び合っていた、ちょうど一年前の出来事だった。
ランディーが見付け持って帰っていた吉野の携帯に、何回も掛かってきた電話。
しつこく鳴り続ける電子音に妙な胸騒ぎを感じ、堪え切れず出た俺は、相手のただ事でない様子にらしくもなく動転した。
吉野の身内、おじいさんとの初めての会話は、初対面の挨拶とは程遠いものだった。
ためらいながらも通話ボタンを押し、「もしもし」と答えた瞬間、相手が息を呑むのがわかった。
『和彦君か! 瑞希を…どうするつもりだね』
誰何するような強い口調で、そんな事を言われた気がする。
けど、その後の展開に驚きすぎて、実はあまり覚えていない。
監禁していると疑われた俺への誤解はすぐに解けたものの、おじいさんの勘違いの原因が、今度は俺を蒼白にさせた。
中学の時の同級生ーカズヒコが吉野の家の住所を尋ねたらしい、という詳しい事情を聞き、その三ヶ月前、川土手で吉野から明かされた田舎でのいさかいと、その時の怯えた様子が真っ先に脳裏に浮かんだ。
再び襲われる事を懸念した俺は、吉野の恐怖を想像して震え、何事もないようにと願いながら、おじいさんの説明を頼りに夢中で自転車を飛ばした。
あの時ほど切実に携帯の電池が切れないよう祈った事は、後にも先にもない。
家を探し当て、震える指でチャイムを押しまくった、あの蒸し暑かった夏の日の夕方。
一歩間違えば傷害事件として、田舎に強制的に帰されていたかもしれない、警察沙汰になりかけた出来事だった。
それを未然に防げたのは、吉野の懸命な説得と、少しも知らなかった和彦の純粋な心。
最悪の事態を想定していた俺は、安堵と、吉野をこの腕に抱ける喜びに他の事は何も考えられなくなっていた。
俺に力なく寄り掛かる吉野が愛しくてたまらなくて、暗闇の中、微かな息遣いを頼りにあいつの唇を求め、探した。
人命救助の為、自分の意思で口を塞いだ相手は、何人かいる。
けど、あんな気分で口付けたのは、あれが初めてだった。
同居を始めた初日にも、危険だとわかっていながらねだられるまま瑞希と同じベッドで、一日目の夜を迎える羽目になった。
それだけでも自制心が揺らぎそうだったのに、瑞希が、ためらいながらも照れ臭そうな声で、『おーちゃん以上に、今の成瀬北斗が好きみたいだ』、なんて真剣に言うから――
おーちゃんだとわかって、一層親しみが増したんだと思っていた。
俺はそれで十分満たされていた。
吉野と俺の間に、他の誰にも割り込めない確かな繋がりがあった事が、何よりも嬉しかったから。
それなのに今の俺が好きだと言い切ったストレートな言葉は、『世間の常識』を考え、わきまえていたはずの俺の心の鍵をあっさりと開けてしまい、溢れ出す想いのまま、むさぼるように口付けていた。
キスの仕方? そんなの知るか。テクニックなんかあるわけない。俺だって自分の行動に自分で驚いたくらいだ。
元々、性欲に関しては瑞希ほど極端じゃないにしても、淡白な方だと思っていた。
山崎や松谷達の話に適当に合わせて聞き、時には自分からも口を挟む。
それはあくまで友達同士のコミュニケーションで、自分から欲するものでは決してなかった。
俺は家庭は持たない。
以前瑞希に打ち明けた通り、自分の考えは間違っていると知っていても、こればかりはどうにもならない。
ただお袋には気付かれたくない。今の俺の願いはそれだけ。
だが、そんな俺の生き方に瑞希を巻き込むべきじゃない。
未来を共に歩む女性の為に、あいつを汚してはいけない。
頭ではわかっていて覚悟もしてるのに、どうしてこんなに……俺は、弱いんだろう。
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