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暗い気分で部屋に入り、思ったより空気が淀んでないのを不思議に思いつつ、机に目を遣った。
残していった置き手紙、気付くか気付かないか半々の気分で、あえて自分の机の上に置いていた。
俺がグラウンドに戻れたのは、他でもない瑞希のおかげだ。
けど、父さんのマンションに押しかけた日から今までその事を改めて話した事はない。
いつかきちんと礼が言いたい、そう思いつつ同居まではそんな時間が取れず、いざ一緒に暮らし始めたら面と向かって言うのが妙に照れ臭くて、中々言い出せないでいた。
今回はいい機会だったから、一人になったこの家で思いつくままペンを走らせた。
メールでなく手紙にしたのは、少しでも心を込めたかったから。
それに瑞希は古風な奴だ。自分宛の手紙ならなおさら、大事に持っていてくれるだろう。
たとえそれが自分より下手な、瑞希曰く可愛らしい丸文字で書かれていたとしても。
それでも、絶対読んで欲しかったら瑞希の部屋に持って行く。あいつが留守だとわかりきっているから。
同居後、吉野の家で初めて一人になって実感した。
さっきは気が動転していて構わず開けたが、瑞希がいる時、あいつの部屋に入ったりしたら、さっきとは違う意味で自分がどうなるかわからない。
この家の他の場所にも瑞希やおじさん、おばさんと一緒に過ごした子供の頃の記憶が僅かに残っていて、時々思い出しドキッとする事はあるが、かろうじて自分を抑えられる。
だが、瑞希の部屋は幼い日、二人の秘密基地だった。
小さな手を繋ぎ、大人の目を盗むように足音を忍ばせ階段を上がる。
ドアを閉めると、二人の世界がそこに広がっていた。
子供なら誰もが一つは持っていただろう、特別で大切な場所。
瑞希は事故の影響か、そんな事も忘れてしまっているようだが、俺はみーちゃんと別れてからずっと、再びあの部屋で二人遊べる日を心待ちにし、指折り数えて待っていた。
一年経ち、二年が過ぎて待ちくたびれても、思い出せばほんのりと温かく、穏やかな気持ちになれた。
夜の闇の中でも目を閉じればいつでもあの部屋へ行けた。みーちゃんの傍へ。
そうやって一人きりの淋しさをまぎらわせていた。
みーちゃんとは二度と会えないと悟った日まで、ランディーと同じ、俺の心の拠り所だった。
足を踏み入れた途端、俺は四才の子供に還り、声を上げて泣くかもしれない。
瑞希が事故の記憶を取り戻し、俺にすがって泣いたように。
そんな醜態、瑞希にだけは晒したくない。
だから、瑞希のいる時にあの部屋には入りたくない。入れないんだ。
なくなっている封筒に気付き、九州に行く前に言っていた通り俺の部屋で寝たんだと察しベッドを見ると、使われた形跡はない。
何故かわからないが、瑞希は二晩とも自分の部屋で寝たらしい。
だが、封筒には気付いたようだ。
どういうことだ?
まあいい、下に下りたら直接聞ける。それに、手紙の事を自分から持ち出す気にはならない。
多分箸を付けずに待ってるだろう瑞希の行動を思い、手早く服を身に付け、急ぎダイニングへと階段を下りた。
「瑞希、ほんと料理上手くなったな」
味噌汁を一口啜って、汁椀の中の具の一つ、輪切りになった竹輪を、箸で摘み上げた。
「ちゃんと一個ずつ、切れてるもんな」
途端に頬を赤くして、俺を睨み付ける。
「相変わらず嫌な奴だな。初めから繋がった具なんか入れた事ないよ」
「まな板の前で四苦八苦してたのに?」
半年以上前の、ぎこちない包丁捌きを思い出し、自然に笑いが込み上がる。
「最初に目撃した時、リンゴのうさぎみたく竹輪で電車作ってんのかと思った。輪っかが三つ四つ連なってて、…あの切り方は技術がいるよな」
からかってやると、思い通りの反応をしてくる。
「うるさい! 切ったちくわがコロコロ転がっていくから、わざと繋げてたんだ」
「それ、滅茶苦茶苦しい言い訳だぞ」
「事実なんだよ! ゴムみたいに跳ねたから、初めて切った時ホントびっくりした」
「お前が押し付けるように真上から切るからだろ」
「いいや。包丁の切れが悪かっただけだ。北斗が『いきなりは危ないから』って子供包丁買ってきたりするから、よけい手間がかかったんじゃないか」
ムキになってとことん言い返す瑞希は、四才の頃のままだ。
負けず嫌いで嘘も嫌いで、よく怒るけど長続きしない。
すぐに機嫌を直して笑いかけてくる。喜怒哀楽のはっきりした奴。
あの頃の瑞希は俺にとっては唯一でも、元気一杯で、誰もがそのわがままを許してしまう、愛らしいごく普通の子供だった。
それが――
瑞希の作った朝食を食べながら、まだ機嫌が直りきっていないのか目の前でムスッと味噌汁を啜る瑞希を、密かに盗み見た。
十一年経つとこんなに変わるのかと、今更のように驚いてしまう。
面影があるのは、あの頃のまま真っ直ぐに俺を見詰める澄んだ眼差しだけ。
バランスよくスラッと伸びた姿態は、華奢な見かけの割にしっかりと引き締まっていて、その辺の男以上に力も筋肉もあると、出会ってすぐに知った。
川土手で、差し出した手を強く引っ張られた時に。
あの時から、こいつの行動には驚かされてばかりいる気がする。
ただ、色が白いせいでスポーツマンと言うには程遠い外見だ。
本人はそれをすごく気にしていて日に焼けたがっているのも承知しながら、俺は敢えて阻止している。
そのおかげで女子が比べられるのを嫌がり、よほど自分に自信がないと近付かないから、それだけでも俺としては非常に好都合なんだ。
恋愛の邪魔をする気はないが、できるならあと二年、誰とも付き合って欲しくない。
高校を卒業したら、俺は吉野の家を出る。
それまでは俺だけの瑞希でいて欲しい。
そう願うのは、許されない事……だろうか。
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