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大川の土手で瑞希に苦悩を打ち明けられてから、一年と半年になろうとしている。
この街にたった一人で越して来て、ひたむきに頑張っている吉野を守ってやりたいと本気で思い、剣道部に入部したと知ってすぐに矢織主将のところに頼みに行った。
出すぎた真似だと十分承知していたが、何かしないではいられなかった。
西城のほとんどの学生が吉野に興味を持ち、性別も関係なく、隙があれば近付こうとしていたから。
俺には近寄り難く感じたあの頃のこいつの雰囲気も、他の人間には手に入れたくなる要因となったみたいで、それも非常にやっかいだった。
入学当初の吉野は、まさしくライオンの檻に紛れ込んだ、か弱い羊そのもので、正直俺は気が気じゃなかった。
ところが、一ヶ月しない間にそれらはあっさり覆された。
剣道部に入部して二週間後、新入部員の力量を見る為に毎年行われる素人以外を対象にした勝ち抜き戦で、いきなり上位に入った吉野は、部内でも一目置かれる立場を自分でしっかり確保した。
吉野の剣道の強さは同級生だけじゃなく、先輩達の間でも話題になった。
二年で県大会優勝を成し遂げた奴だ。今なら当然だと納得もするが、さすがに去年の時点ではそれほどでもなく、騒ぎもすぐに収まったし、本人も中学での大会の成績など、一言も口にしなかった。
その勝ち抜き戦以降、吉野へのイメージが変わったのは確かだ。
それでも俺自身、洸陽の藤木さんと互角の力を秘めていたとは夢にも思わず、その藤木さんが西城の矢織主将を同等、もしくはそれ以上の剣士だと意識していたという事実も、この間、インハイ予選を終えた瑞希に話を聞くまで全然知らなかった。
部外者の中には無名の一年に負ける方が弱すぎると、他の部員に散々な事を言いつつ、好奇心で練習を見に行った者も大勢いる。
吉野の剣道をする所を、本当は誰よりも先に見てみたかった。
けど、そんな連中と一緒に思われるのが……下心丸出しの行為が嫌で、結局、今まで一度も西城の道場を覗いた事はない。
だから去年の夏休みに田舎の中学校で剣道部が稽古をしていたのは、俺にとって願ってもないチャンスだったわけだ。
その日初めて、防具をまとい、竹刀を手にしたところを見た。
TシャツにGパンという軽装の上に防具を着けただけの吉野を見て、正直驚き、怪我しないか心配した。
あれこれ考え忙しくなる動悸を抑えつつ見守っていた試合場の白線に、吉野が立った瞬間、場の空気が変わったのを肌で感じ、背筋がゾクッとした。
慣れ親しんだ野球でも、誰かのプレーを見てそんな気分になった事なんか一度もなかったのに。
切れのいい竹刀の動きと、軽快なフットワーク。
何より、揺らぎのない剣技に、すっかり魅せられていた。
そして――今まで出会った誰よりも綺麗だと、心から思った。
今と同じ、凛とした空気を身にまとう吉野には、一分の隙もなく、そう容易く声を掛けれるような雰囲気は微塵もなくて、西城での生活に対する俺の心配は、杞憂に終わるかに思えた。
ところが、自体はもっとややこしく、複雑化していった。
時折見せる心細そうな表情が……一人暮らしの不安や、身体への負い目、そんなマイナスの感情が表に出る時、普段の吉野の鋭利な印象は、外見だけの危うい物に変わり、その脆そうな一面に益々、男女問わず惹き付けられていた。
もちろん瑞希はそんな事、思いもしてない。
計算して作るものじゃない、自然なままにほとばしる素直な感情が、いつの間にかみんなの心を掴んでいたんだ。
普通ならそんな人間は、遠く眺めるだけの高嶺の花で落ち着く。
現に一年経った今も、瑞希に堂々と告白する奴はいない。
なのにこいつときたら、周りに与える自分の印象に気付きもせず、ここでの生活に慣れてくると誰彼構わず話し掛け、笑い合い、即友達になってしまう。
最初に山崎に懐いたのは、孔太郎の人柄のせいだと思っていたが、それは大きな誤解だった。
今にして思えば、それも納得できる。
あのみーちゃんなら、誰とでもすぐに打ち解けて当然だった。
目の前に座り、両手を合わせて「ご馳走様」と頭を下げる、上品…というより躾の行き届いた奴を、複雑な気分で見つめた。
この、なんっにも気付かない鈍感な奴に、一体何人の学生がそれとなく近付き、玉砕されたことだろう。
それでも変に拗れないのは、瑞希に悪意がないからだ。
赤ちゃんのように汚れない心で接する相手には、誰だって敵うはずもない。
それほどこいつの存在は稀有なものなんだ。
だが、俺が一目見て惹きつけられた、あの凛とした澄んだ空気は、間違いなく田舎で成長して身に付いたものだ。
両親に先立たれ、甘える場所を失くしてしまった瑞希が、自分の悩みを誰にも打ち明けられず、傷付き、苦しみながら、それでも自分を見失うことなく生きてきた、確かな証。
それが今の瑞希を一層強く輝かせている。
誰も見た事のない強烈な個性が、今 確かにこの地で息づき、花咲かせつつある。
それをこの目で見届けるまでは、誰にも触れさせたくない。
俺が、瑞希を守り続けてやりたい。
「――ぼけっとしてる。まだすっきりしてないんだろ」
急に話しかけられ、頬杖をついていた顔を上げると、お茶の入った湯呑みが目の前に置かれていた。
様子を伺うようにじっと見つめられ、何となく気詰まりになる。
不自然にならないよう湯呑みを手に取り椅子の背にもたれると、瑞希が空になった茶碗を重ねながら、したり顔で説教を始めた。
「うたた寝なんかするからだよ。夕べのうちに風呂に入ってれば、もっとしっかり休めたのに」
……確かにそうかもしれないが、瑞希にだけは言われたくないぞ。
「あ、そうだ、瑞希に質問」
「ん? 何、改まって」
うたた寝の事を持ち出され、どうしてもはっきりさせたい事があったのを思い出した。
「俺、夕べの記憶ほんとにまるでないんだけど、どうやって和室まで行った? まさか瑞希に抱き上げられた、なんて事ないだろ」
「抱き上げないでどうやって運ぶんだよ」
「え!? 嘘だろ、お前そんなに力強かったか?」
「抱き上げたってより担いで行ったんだけど。案外軽かったよ。もっと大変かと思ってたけど楽勝で運べた」
にこにこと、さっきまでの落ち込みは忘れ去ったかのような笑顔でそんな事を言う。
「担いだ……瑞希が俺を?」
その様子を想像し、思わず額に手を当てた。
実際のところ今は体重5㎏ほど落ちてる。が、瑞希に易々と担がれるほど軽くはない。
湯呑みをテーブルに戻し、すっくと立ち上がる。
次にどうするか察した瑞希が、合わせるようにガタッと椅子を引き、俺の動きを見て反対側に駆け出した。
「待て! 瑞希、本当の事を言え!」
「だから、『担いだ』って言ってるだろ」
「嘘を吐くな嘘を! お前は思ってる事が全部顔に出るんだ」
ドタドタと一階を逃げ回る瑞希を追って、廊下からキッチンに回りまたダイニングに戻る。
こんな時の瑞希は本当にすばしっこい。
伸ばした手に捕まりそうで捕まえられず、俺が寝ていた和室に飛び込んだまではよかったが、広げたままの敷布団の端につまづき、そのままダイビングした。
ほんとにべシャッと布団の上に転んだのを目撃した俺は、思わず盛大に吹き出した。
こんな風に腹の底から笑えるようになったのは、瑞希と再会してからだ。
この明るさに、意表を突く行動に、何回も助けられ声を上げて笑った。
布団に近付き、どうにも収まらない笑いに、腹筋が痛くて身を捩っていると、
「いい加減にしろ!」
言うなり足を取られた。
ガクッと身体が傾ぎ、前のめりに瑞希の上に圧し掛かりそうになって、咄嗟に両手を突いて身体を支える。
俺が文句を言うより先に、今度は腕の間に挟まれた格好の瑞希が下から見上げ、爽やかすぎる笑い声を上げた。
……ほんとに危ない奴。
俺の言う事、全っ然通じてない。けど…もういい、諦めた。
これが、今の『吉野瑞希』なんだ。
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