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「いつまで笑ってるんだ」
小さな形のいい頭を軽く小突き、隣に座り直す。「で、真相はどうなんだ?」
もう一度尋ねてじっと顔を覗き込んだら、笑顔が少しずつ消えていき、バツが悪そうにぷいっと視線を逸らした。
「ウソだよ。意識のない北斗を担げるわけないだろ」
それを聞いて、こっそり胸を撫で下ろした。しかし、
「毛布の上に寝かせて、引っ張ってきたんだ」
明かされた事実は、担がれるより恥ずかしいものだった。
「……リビングから、ここまで?」
朝、ここで目が覚めたんだから、わざわざ確認する事ではなかったと、後で思い出すくらいには動揺していたんだろう。
瑞希が頷いたのを見て、がっくりと項垂れた。
「お前なあ、…ほっとけよ、そんなの」
「だって、すごい試合してきて疲れてるのになんか窮屈そうで、ゆっくり寝かせてやりたかったんだ」
「それは…まあ、ありがと。けど――」
「電車ごっこしてるみたいで楽しかったよ」
ほんとに楽しそうに答えたその一言に、開いた口が塞がらない。
何才児だ、お前は!?
「『北斗、和室移動プロジェクト』。すっごく簡単に服まで脱がせて布団に移せて、俺、自分で拍手したよ思わず」
「………」
その告白に、再び身体が熱くなる。
けど、あまりに誇らしそうに笑う瑞希を前に、怒る気力も萎えてしまい、何も言えず黙り込んだ。
目の前にいるのは精神年令四才の子供、一年後の悠太だ。
そう思うことにし、瑞希の身体の下敷きになったタオルケットを力任せに引き抜いて、頭から包まるようにバサッと自分の身体の上に掛けた。
「もうちょっと寝る。瑞希も、もう出る時間だろ、遅刻するぞ」
「ん、うん…そうだけど……」
「テーブル片付けとくから、ほっといて行けよ。ご馳走様」
あまり使われてないような少し硬めのタオルケットの中、早く行くよう促してふて寝を決め込む。
瑞希の努力の甲斐あってか、身体の疲れはさほど感じないが、精神面でやたら疲れた。
「北斗、夜はゆっくりできる?」
「ああ。それに明日からバイト始めるけど、部活が少しは早く終わるから、夏休みの間は七時か…遅くても八時には帰れるだろ。夕飯は家で取る」
「そう、じゃあ楽しみにしてる。俺も四時頃には終わると思う」
「今日の晩飯は俺が作る。腕、鈍りそうだから」
「わかった。期待しとくよ」
そう言いつつも中々傍を離れない瑞希を不審に思い、タオルケットから顔だけ出して様子を伺うと、俺を見ていたらしい瑞希と目が合った。
「? 何、…まだ何かあるのか?」
すると、いいやと首を振り、なぜか逡巡する。
一体どうしたんだ?
瑞希のためらうような気配が俺にまで移り、妙に気持ちがざわつく。と、昨日の観戦で日に焼けたのか少し赤くなった腕が伸びて、捲ったばかりのタオルケットが被せられた。
「なに……」
出かけた声が、身体を強く抱き締められる感覚に、口の中で消えた。
「ありがと、北斗。…俺、――――」
「――え?」
何と言ったのかよく聞こえなかった。
けど、抱き締められたのは気のせいなんかじゃない。
「何だって? 瑞希」
再びタオルケットを大きく捲り聞き返した時、俺の携帯がどこかで鳴った。
メールじゃない、電話だ。
辺りを見回す俺の横で、置き場所に心当たりがあったらしい瑞希がすぐに立ち上がり、西側の窓辺へ駆け寄る。
腰窓の障子の内側で点滅する携帯を掴み、着信を見ながら戻って来ると、「山崎から」と一言告げて差し出した。
受け取った携帯のディスプレイには言葉通り『孔太郎』の文字。
布団の上に胡坐をかき、通話ボタンを押した途端、興奮しきった声が耳元でがなりたて、思わずそれを遠ざけた。
「聞こえてる。ボリューム落とせ、鼓膜が破れる」
『そう言うなって。喜べ! 俺達、甲子園行けるかも知れないぜ』
「は? …『甲子園』? どういう事だ?」
隣で正座する瑞希にも、携帯から漏れる声が聞こえたらしい。
切れ長の涼しげな目が、大きく見開かれている。
『今朝、県支部から連絡が入ったんだと、和泉が出場辞退するって』
「辞退!? まさか……」
聞き返す声が硬くなる。「もしかして、何かトラブったのか?」
あいつらが? 嘘だろ。
出場辞退なんて、ただ事じゃない。
飲酒とか校内暴力、無免許運転等々、考えられる原因は数え切れないほどある。
だが、そのほとんどが法に触れるようなものばかりだ。
あの加納が、今の時点でそんな真似するとは思えないし、梛は上級生にも意見しそうなくらい迫力がある。
間違いであってくれ!
そう思いつつ山崎の返事を聞いた。
『さあ、詳しい事情はまだわからない。とにかく学校に集合だとさ。九時半に校長室横の会議室だ、遅れんなよ。あ、それと次の奴に連絡頼む』
「わかった、サンキュ」
ボタンを押して、とりあえず次の田島に同じ事を口早に告げ、携帯を畳む。
隣では、腰を上げる事もできず、瑞希が心配そうな表情をしていた。
……これは、西城が甲子園に行けるかも、という喜びより、加納達の事を案じてる顔だ。
ったく、嫌な予感的中だ。
本物のあいつを見たら、瑞希は益々惹かれると思っていた。
特に試合終了後、ピッチャーズ・プレートの土を払い除けた加納の行動は、もろ瑞希の好みだ。
俺にはあんな真似できない。もう投手でもないし。
どうしようもない事でも、つい溜息が零れる。
そんな俺の横から瑞希が遠慮がちに、思いがけない事を訊いてきた。
「あの…さ、『出場辞退』って聞こえたんだけど、センターの人の怪我が原因……じゃないよな」
「あっ!」
そうだった、そんな事もあったんだ。瑞希に言われるまですっかり忘れてた。
彼が無謀なプレーをしたのは、半分以上俺のせいだ。
前のイニングの俺の捕球に対抗して、無茶を承知で喰らいついたんだろう。
それはわかっているし怪我の程度も気になったから、監督にも何か情報が入ったら教えてもらうよう頼んでいた。
けど、彼はその事で後悔なんかしていないはずだ。
第一、野球にも怪我は付き物だ。
それに決勝戦の後半でもスターティングメンバーを次々に代えていた和泉が、それほど人材に困っているとも思えない。
だから、センターの怪我のせいではないと思う。
思うが……段々不安になってきた。
もしそうなら、出場辞退の原因は俺!? 嘘だろ!
「―――とにかく、学校行かないと」
もう八時半を過ぎた。
瑞希もこれ以上遅くなる訳にはいかない。
「稽古、九時からなんだろ?」
「ん、そうだけど」
こっちの事が気に掛かるのか、その表情は精彩を欠いている。
部活に行く時の瑞希はいつも活気に満ち、瞳には歓喜の色が浮かんでいる。
「大丈夫だ、何かわかったらメールする。それに学校に行けば情報が溢れてるかもしれないし」
「うん、そうかも。じゃあ理由でも何でもわかったら知らせて。あ、時間が取れたらでいいから」
「了解」
「あと、片付けは帰ってからでいいかな」
見えないダイニングを振り返り、指差して言う。
「ああ。あ、一応ユニフォーム持って行かないと、それに制服」
嫌な胸騒ぎを感じつつ立ち上がり、布団を畳んで押入れに運ぶ。
手伝おうとする瑞希を、制しかけて止めた。
またぎこちなくなるのは嫌だ。それより手を借りる方が手っ取り早い。
その後は、当然ながら二人とも大慌てだった。
瑞希と別れ、急いで二階に駆け上がると、クローゼットの中から替えの制服を取り出し、着たばかりのTシャツをベッドの上に放り投げた。
また、ここに帰って来れなくなるかもしれない。
瑞希と一緒に居る時間は限られているのに、それさえ望む事が叶わない。
瑞希がそうである以上に、俺にとってもここでの生活は何ものにも代え難い、一番大切なひとときだった。
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