オメガ【1】

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オメガ【1】

 放課後の教室は、汗とチョークの匂いで満ちていた。人の体温の名残もあって、妙に蒸している。教室に佑樹を招き入れた壮年の男性教諭は、窓を開けてから、向かい合わせに置かれた椅子の一脚に腰掛けた。  窓から入った秋特有の香りを含んだ風が、室内の熱気を押し流していき、階下のテニスコートからは掛け声が三階の教室まで届いている。  佑樹の通う中学では、志望校決定のための三者面談の前準備として、担任と生徒だけの二者面談を行っている。佑樹に順番が回ってきたのは、その最終日だった。  担任である教諭は、額ににじんだ汗を拭いながらあらかじめ提出された資料を眺めている。衣替えを終えたばかりの佑樹も、学ランの下では背中にじわりと汗がにじむ感覚があった。 「本当に中央高校の特進科を目指すのか?」 「はい。将来的には医学部を目指したいんです。それに中央は全寮制だし、寮に入って生活するのも経験かなって」  佑樹の応えに、資料に視線を落としたまま、対面の担任からは大きな溜め息がもれる。思わず佑樹は瞬きをした。 「俺じゃ無理ですか?」  まるで賛同しかねるとでも言いたげな反応が、佑樹には意外でならなかった。春から県下の中学で何度か行われている模試の結果は良好である。クラス委員の活動にも率先して参加していて、階下で練習しているテニス部にも引退するつい最近まで在籍していた。  学校生活の素行も悪くないし、内申点も十分なはずだ。  だが返ってきたのは渋い唸り声で、佑樹は居心地の悪さを感じて身動ぎをした。 「担任としては、お前の選択を応援してやりたいとは思う。だけど、お前の志望を親御さんは納得しているのか?」 「少なくとも父は、俺の決めたことに反対はしないと思いますが……」  佑樹の両親は四十直前で、佑樹をもうけている。一般的に高齢出産といわれる初産だった。そんな理由もあって、佑樹のことを大切にしてくれている。むしろ母なんて鬱陶しいくらいだ。余計な口出しをされるのが嫌で、志望校については今まで隠してきたが、それでも内科医である父と同じ道を目指すための選択を目標となる父自身が反対することなど、佑樹には想像できなかった。 「だけどな、佑樹、中央高校は全寮制の私立だし、大学で医学部に進むにしても学費が掛かる。ただでさえ、ご両親はこれからはお前のために大変な時期なんだから、ちゃんとそういったことも含めて話あっておけよ」  現実的な話、学費のことも考えていなかったわけではない。それでも父の職業を考えれば、それを理由に反対される可能性も低いだろう。担任だってそれを理解していないはずがない。  だから、なにもかも自分一人で決めてしまっている佑樹を、心配しての言葉なのだろう。  だが佑樹は、それだけでは納得はできなかった。親元を離れて生活するということは、佑樹の自立心のあらわれでもあった。だからこそ担任の言葉が、佑樹のそれを否定しているようにも感じられたのだ。 「なんで先生に、うちの心配されなくちゃならないんですか。俺が考えなしに決めたとでも思ってます?」  担任はそこでようやく資料から顔を上げた。目が合うと、彼は眉間の皺を深くした。 「お前のところは、過保護だからな。だがお前が親元を離れる選択をする以上、家族で話し合う時間も必要だろう。三者面談までに、話し合う時間をつくってもらえ。いいな」  佑樹の自宅は父の職場と一緒になっている。父の診療所はレンガを模したタイル張りの外観で、大きく設計された窓からは、陽射しが注ぎとても暖かい。そのため午前はいつも陽だまりで憩うお年寄りで賑わっている。午後からは風邪をこじらせた社会人や学生が多かったが、それも近所の住民がほとんどだ。  だから佑樹の顔もよく知られている。もうそろそろ午後の診療も終わりがけだというのに、帰宅するなり診療所に顔を出せば、馴染みの患者さんや受付のスタッフさんが、その姿を見つけて声をかけてくる。 「佑樹くん、今日は学校どうだった?」 「そんなに急いてどうしたんだ?」  と口々に呼び掛けてくるものだから、佑樹は精一杯の愛想笑いを浮かべて「学校の用事で父に会いにきたんだ。だからごめんなさい」と、隠れるように診療室の裏にまわった。  診療室には患者出入口の他に、受付から直線的に伸びる作業路が裏に確保されている。  カルテのやり取りや検査試料を運ぶ看護師の邪魔にならないように通り抜ければ、診療を終えたのか、父は母と話し込んでいるところだった。母は専業主婦であるが佑樹が中学に入ってからは、家事の傍ら、父の診療所で事務手伝いをしている。  白衣を着たまま椅子の上で伸びをした父と、母の肩越しに目があった。貫禄を出すために生やし始めた髭を撫でながら、「佑樹、おかえり」と父が先んじて口を開いた。  ただいま、と返事を返せば、母がくるりっと振り返る。 「佑ちゃん、おかえりなさい」  笑うと、母の目元にはシワが寄る。それでも母の容姿は、とても五十代半ばには見えないものだった。いつも小綺麗な格好をして、緩くパーマをかけたセミロングの髪をバレッタでとめている。その容姿は佑樹の覚えている限り幼稚園の頃から変わらない。その上、佑樹への接し方も変わらずのそのままなのだから困りものである。佑ちゃん呼びが恥ずかしくて、そろそろ辞めてほしいと言っても、「あらあら可愛い、反抗期かしら」と息子の頭を撫でるそんな人だ。  決して母が嫌いなわけではないが、佑樹は母のその子供扱いが苦手だった。父はそんな佑樹の心情を察してか、最近は大人扱いしてくれることも増えている。それでも父も母には弱く、二人が揃えば母に比重がよるのは仕方がないことである。  だからこそ、なんとしても寮生活を勝ち取りたいというのが、佑樹にとって正直なところだった。先生には父は反対しないだろうと言ってみたものの、両親は佑樹の志望校を公立の進学校だと思い込んでいる節がある。  今まで二回あった三者面談でも、できる限り上を目指すことを伝えるに留めていて、具体的な志望校の名前は出していない。いつかしなければならなかったことが、予定より早くなっただけのことだ。佑樹は自身にそう言い聞かせて、重い口を開いた。 「父さん、母さん、後で話があるんだけど」 「今じゃ、駄目なのか?」 「今日、二者面談があって、志望校に関することだから。家でゆっくり話したい」 「わかった。じゃあ、夕食の前に話を聞こう」  佑樹が父の言葉にうなずいて、踵を返しかけた時だった。 「佑ちゃん、お母さんたちはもう少し掛かるから。先に着替えて、サプリメント飲んじゃっときなさい」  母の言葉に動きを止め、佑樹は思わず眉を寄せた。 「あれ苦いから嫌いなんだよな」 「良薬口に苦し、よ。受験生は体調を崩すわけにはいかないんだから。お父さんが用意してくれてるサプリメントくらい毎日飲んでおきなさい」  中三に進級して遅ればせながら声変わりが始まった頃、佑樹にはインフルエンザに似た症状で寝込んだ時期があった。  その時から健康管理の名目で週一回飲んでいたサプリメントは、いつからか日課になっている。  確かに毎日サプリメントを摂り始めてからは、風邪知らずで体調は良好であったが、その効能に比例して日に日に母の飲み忘れチェックは厳しくなっている。  以前飲み忘れた時は、たった一度で風邪をひくわけもないのに、母は泣くほど心配したくらいだ。大袈裟だと佑樹は思ったが、下手に反発すると、同じ二の舞になるのは目に見えている。今夜の大事な話し合いの前に、母の機嫌を損ねるのは避けたかった。  佑樹は大きくため息をついた。 「わかったよ」  母とのやり取りを黙って見守っていた父は、佑樹の心情を察してか苦笑している。 「佑樹、ちゃんと飲むんだぞ」  肩を揺らして声を絞り出した父に、佑樹は肩を竦めて診療室を後にした。  できれば今日は当たりの日であってくれ、とそう思いながら。
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