オメガ【3】

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オメガ【3】

 男女以外にヒトを分類するもうひとつの性がアルファ、ベータ、オメガだ。オオカミの群れの序列を基に、名付けられたものらしい。その性は、十数年ほど前に生まれたフロレゾンと呼ばれる薬の副作用によるものだった。フロレゾンは出生前診断で判明する遺伝子疾患に効くもので、遺伝子中の発症スイッチに作用して症状の発現をオフに切り替える作用を有している。それにより発症リスクを軽減する代わりに、オメガ化という副作用を生んだ。  もともとは赤ん坊に健康な一生をプレゼントするという意味を込めて、花の開花を意味する薬の名前をつけたらしい。けれど、皮肉なことに、おしべとめしべを内包する花のように、オメガはその身に男女の特徴を有し、発情期と呼ばれる時期を迎えれば男女関係なく妊娠が可能になった者たちなのだ。  その誕生理由や発情期の特殊性から、オメガを敬遠するものも多い。だがオメガ化という副作用が判明した今でも、原因となる遺伝子疾患治療薬の需要は高く、社会的に非常にデリケートな話題とされている。  自身の持つ情報を思い浮かべただけでも、佑樹はオメガを肯定的には捉えられなかった。自身で可能性を口にしておきながら、できることなら父には否定して欲しいと思った。だが父は目を伏せ、視線だけでうなずいて見せた。  佑樹の口から、ははっ、と乾いた声が漏れた。  今まで普通だと思ってきたことが覆される。それは自身のアイデンティティを否定されることだった。 「佑ちゃん、決して悪気があったわけじゃないのよ。あなたのためを思って」 「わかってる。だけど、最悪だ……」  思いを音にしてから、これでは単なる八つ当たりだ、と佑樹は思った。けれど今の気持ちをどう表現していいのか、自分でもよくわからない。 「お前は秘密にされたことに怒っているのか。それとも自らがオメガである事実に憤っているのか」 「だって、カッコ悪いじゃないか。ひとりで空回りして。先生にだってわかってたんだ、オメガじゃ、結局上を目指すのは無理だって。なんでこうなる前に誰も何も教えてくれなかったんだよ」 「なぜ無理だと決めつけるの。佑ちゃんの頑張りは私たちが一番よく知ってるわ」 「じゃあ、逆に聞くけど、なぜオメガであることを隠しておく必要があったの?」 「それは……」と言葉を濁して、母は助けを求めるように父を見た。 「ほら、母さんも、オメガじゃ不利だと思ってる。答えに困るってことはそういうことでしょ」 「確かに、オメガが社会的弱者であることは、否定できないな。だが、知っていたらお前は今の選択をしていなかったのか。そうでないのなら、なんら恥じることはない。私や母さんが心配していたのは、周りの悪意にお前が否や応にも巻き込まれてしまうことた。オメガであることで負い目をおってほしくない。お前がオメガとなるきっかけは、私にあるのだから」 「いいえ、そもそもわたしがフロレゾンを飲んでいなかったら、副作用も現れることはなかったし、佑樹をこんなに追いつめることもなかったのよ」  責任は自分にあると言いきった父の言葉を聞いて、母は首を横に振った。その瞳には今にも溢れだしそうなほど、涙が湛えられている。「ごめんね、佑ちゃん、わたしが悪いの」と、掠れた声は懸命に感情を抑えようとしているようだった。  佑樹が日頃感じていた、母の過剰なまでの保護欲は、母が抱いていたその負い目が原因なのかもしれない。  佑樹は、感情に揺れる母の眼差しを真正面から受け止めた。 「高齢出産になるとダウン症のリスクが上がることは知っていたわ。だからわたしは、優さんにすすめられた出生前診断を断らなかったの。どんな結果でも優さんとなら乗り越えられると、根拠のない自信があったわ。結果は陽性だった。わたしと優さんは選択を迫られた。そのまま産むか、それとも当時認可間もないフロレゾンに頼るか。中絶するという選択肢もあったけれど、それだけはしたくなかった。自然に任せて産まれてきた子がどんな障害を持っていても、愛する自信はあったけれど、障害を持って産まれてくることで子供が負うハンディを思うと、少しでも希望にすがりたかったの」  どちらに転んでも、ハンディを負ってしまったのは皮肉なことだ。人に頼らざるを得ない人生か、差別を受け続ける人生か、その選択肢を想像して、 「だったら、俺、産まれて来なければよかった……」  と思わずもれた呟きは、意識外に大きな声となっていた。  両親の耳にもその呟きは届いてしまっただろう。目の前の母の瞳から、堪えきれず涙が溢れだした。その涙を目にした瞬間、ひゅっと佑樹の視界を黒い影が掠め、遅れて左頬を乾いた音と共に衝撃が襲う。  佑樹には何が起こったのかわからなかった。じんじんと熱を持ち痺れた頬の感覚だけが妙に鮮明で、まるで脳が痛覚以外の感覚を放棄してしまっているようだった。 「なんてことを言うんだ」  静かに怒りを湛えて、いつの間にか目の前に父が立っていた。振り下ろされた手は行き場を失い、中に浮いたまま呼吸に合わせて上下している。父に叩かれたのだ、と佑樹はようやく自分に何が起こったのかを察した。  なぜ叩かれねばならなかったのか、とじわじわ沸き起こってきた疑問は怒りへと変わる。 「父さんにはわからないよ、今の俺の気持ちなんて」  社会的に尊敬される立場にある父は、いわば高位種アルファなのだ。アルファである父に、オメガである佑樹の気持ちがどこまで理解できるのだろうか。 「ああ、わからないな。わかるはずもない。お前こそ今の私の気持ちなんてわからないだろ」 「わかりたくもない」 「そうか、なら私たちこそ存在しなければよかったな」  言葉の意味を理解して、どきりっとした。喉に刺さった小骨のようなもどかしさが、佑樹の言葉を奪った。両親の存在がなければ、佑樹が産まれることもなく、こんなに思い悩むこともなかっただろう。ここで肯定の言葉を口にすれば、両親を悪者にして楽になれる。しかしそれで本当に納得できるのか、本当にそれでいいのか、佑樹にはそれがわからなかった。 「母さんは決断を迫られた時、中絶するなら自分も死ぬと言った。理解しようとしなくていい。だが、それくらいお前が大切だということは、心に留め置いてくれ」 「脅す気?」 「なんでそうなるんだ」 「それ、俺が死ねば、母さんが死を選ぶってことだろ。ずるいよ」  オメガとしての人生なんて、高が知れている。だったら生きていく意味などあるのだろうか。産まれてこなければよかったは、何も過去に向けた気持ちだけではない。未来をーー何もかも投げ出してしまいたい衝動を、父の言葉は見越しているような気さえした。 「ずるくて、結構。だがそう思えるのなら、その気持ちを忘れるな。何かにつまずいて自分の存在を否定したくなった時に、この記憶を思い出せるように」  やはり父の言い方はずるい、と佑樹は思った。母を人質にとって、未来を強要している。これからオメガという性と共に、なにがあっても生きていかなければならないのだ。
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