日常と現実【1】

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日常と現実【1】

 オメガとして改めて自分の人生を考えたときに、なにが最適な選択であるのか。佑樹にはそれがわからなかった。  二者面談の時に再度提出を求められた進路希望の紙は、鞄から出されることなく今も未記入のままである。  昨日はあれから部屋に閉じ籠り、ずっと泣いていた。涙は早々に渇れてしまったが、ベッドに入っても目が冴えて眠れなかった。結局一睡もできず、腫れぼったい目を擦って階下に下りたのは、午前五時を少し回ったくらいである。  両親と顔をあわすのが嫌で、制服に着替えると両親が起きてくる前に買い置きのパンを摘まんで家を出た。  早朝の住宅街は穏やかだった。新聞配達のバイクの音が響き、早い家ではもうすでに朝食の準備が始まっているようで、どこからともなく美味しそうな焼き魚の香りが漂ってきている。  佑樹は急に眠気に襲われ、大きなあくびをした。なにも知らず、なにも変わらない営みがそこにある。そのことが少しだけ佑樹を安堵させたからだ。  佑樹には日常以外に逃げ場所がなかった。オメガという非現実的な事実は、佑樹の日常を蝕むリスクを帯びている。それは絶対に避けたかった。  学校へも行きたくなかったが、それでは自らオメガという現実に屈したことになる。そういった葛藤もあり、わざわざ制服に着替えて出てきたのだ。  佑樹は近所の公園にベンチを見つけると、そこに腰掛け、スマートフォンのアラームをセットした。学校が始まるまでまだ数時間の余裕がある。少し休んでからどうするか決めても、遅くはないだろう。誰も自分をオメガと知らない、その安心感のなかでなら眠られる気がした。  どのくらい眠っていただろうか。佑樹はアラームがなる前に、膝の上に感じた重みで目が覚めた。ぼやける視界がはっきりしてくると、ベンチの前にしゃがみ混んで頬杖をつく形で、五歳ほどの少年が佑樹を不思議そうに見上げている。小さな顎に低く幅広の鼻、そして大きな黒い目をした少年だ。少し鼻が右に曲がっていて、鼻の下に引きつったような痕がある。少年はあー、と訳のわからない言葉をはくと、ぺしぺしと佑樹の膝を叩いた。 「ごめんなさい、この子、あなたが心配でたまらなかったみたいで。こんなところで寝てるから、具合が悪いのかと様子を窺ってたの」  見上げるともうひとり人がいた。少年の母親なのだろう。化粧っ気がなく、Tシャツにジーンズといったラフな格好が似合っている。 「すみません。こんなところで寝ている俺が悪いんです」 「体調は大丈夫?」 「寝不足だったんですけど、少しうたた寝したらすっきりしました」  佑樹の声に反応して、少年はにっこり笑って佑樹の足にぎゅうっと抱きついた。 「……あの」 「よかったねって」  母親が少年に変わって、その心を代弁する。小さな子供は言葉がうまくないかもしれないけれど、さすがに五歳にもなれば、ある程度の会話はできるものだろう。なぜ言葉を喋らないのだろうか。  ありがとうと少年の頭を撫でてやりながら、そろそろ離してくれると伝えても返ってくるのは、意味をなさない唸り声と首を横に振る仕草だけである。  なにかがおかしいと、佑樹が感じるのに時間は掛からなかった。 「健、お兄さんも困ってるわ。学校に行かなくちゃならないみたい」  母親が諭しても、返ってくる反応は同じである。思わず佑樹は、自身の考えを声に出していた。 「この子、話せないんですか?」 「話せないわけじゃないの。ただ少し昔の手術の影響で、話すのが苦手なくらいで。でも幼稚園に通いはじめて、お友達と違うことに気づいてからは、話すのが嫌いになっちゃったみたい」  そこで母親は、心底困ったようにため息をついた。 「今日だって、朝から幼稚園には行きたくないって騒いじゃって……」  半ば独り言のように呟かれたそれは、彼女の疲れを弁明していた。お互いに気晴らしもかねて、親子で朝早い公園にやってきたのだろう。  彼女には悪いが、佑樹には少年の気持ちがわかるような気がした。少しだけ少年と自分の境遇が重なったからだ。  少年は顔の手術の痕と喋り方で、常にその違いが相手に伝わってしまうのだ。少しでもそれを隠そうと決心するに至るには時間は掛からなかっただろう。佑樹だって、できることなら友達にはバレたくない。  けれど佑樹が第三者の立場に立った時、少年がこの先ずっと喋らずに暮らしていくのが、本人のためにならないのはわかりきったことだった。 「ねぇ、ずっとそのままでいる気?」  その質問は佑樹自身にとっても、諸刃の剣である。それでも黙りを決め込む少年の意識を、こちらに向けるのには有効だった。  少年は抱きつく力を弱めて顔をあげると、自分と佑樹を交互に見比べて、ゆっくりと身体を離した。どうやらこの体勢のままでいるつもりか、と怒られていると思ったらしい。 「違う、違う。そのままずっと喋らずに生きていくつもりか、って聞いたんだ」  今度は言葉の意図が正確に伝わったのだろう。すぐに少年の肩が跳ね、みるみる表情が曇っていく。まずいと思った瞬間、少年は目からこぼれ落ち始めた涙を必死に拭いながら、佑樹に背を向け逃げるように駆けていった。 「こら、健!」  と少年の名を呼んで、母親が後を追う。泣かせてしまったことを謝る暇もなく、佑樹はまたひとり公園に残されてしまった。
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