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日常と現実【2】
佑樹は少年に対して、決して意地悪をしたかったわけではない。泣かれてしまったのは予想外であったが、佑樹があんな質問をしたのは、少年がどんな選択をするのか純粋に気になったからだ。
ずっとそのままでいるのか、と自らに尋ねても、佑樹はまだ答えを持ち合わせていない。それどころか、今の自分は先程の逃げていった少年と同じでなのではないだろうか。聞きたくないこと、見たくないものから目を背けている。
仲間がいると思えば気は楽だが、あんな小学校にもあがっていない子供と同じかと思えば大人げないような気もした。障害に関する葛藤に、年齢なんて関係ないかもしれないけれど。
それでも佑樹には、年長者としてのプライドがある。手のなかで鳴るアラームを解除して、佑樹は学校へ向かうために立ち上がった。
学校での一日なんて、ほとんど決まっている。登校して、授業を受けて、休み時間は友達と騒ぐ。ただ自身がオメガだと知ってしまった今となっては、その日常は佑樹にとってまったく違ったものに感じられた。
生徒のなかには普段気がつかなかっただけで、自分と同じようにオメガが隠れているのではないか。今まで考えつきもしなかったそんな可能性が思い浮かべば、人を見る目も変わる。
中学へ続く一本道は、自転車に乗って駆けていく者もいれば、イヤフォンをつけて歩く者、単語帳をめくりながら歩く者と様々だ。男子は学ラン、女子は赤いスカーフのセーラー服と、服装はみな一緒のはずなのに、スカート丈や学ランのボタンの留め方ひとつでその印象はずいぶん違う。
それら生徒の特徴ひとつひとつが、佑樹にとってオメガを見つけるヒントであり、興味の対象となった。
だが結局、佑樹はオメガを見つけることはできなかった。なにより佑樹には、それらの判別をするだけの知識が不足していた。
佑樹の知るオメガの知識は、薬の副作用により生まれたことと発情期のこと、男でも妊娠できることくらいだ。
女性的な男子生徒や男勝りな女性生徒が必ずしもオメガだとは限らないし、発情期にしても欠席率の高さや服用薬の有無なんて決め手に欠ける。打つ手が思いつかず、佑樹は大きくため息をついた。
その瞬間背後から加わった衝撃に、間をおかずその息を再度大きく飲み込むはめになった。咳き込みながら背後を振り返ると、そこに居たのは幼馴染の快晴だった。快晴は佑樹の家から百メートルほどの距離にある歯科医院の息子で、榛名家とは仕事柄家族ぐるみで交流がある。
いつも約束しているわけではないが、通学路で顔を合わせれば、一緒に登校するのが自然な流れだった。後から家を出た快晴は、先を行く佑樹の後ろ姿に気づいて走ってきたのだろう。肩で息をしながら、学ランの襟を緩めて乱れた髪を手で撫で付けている。
「おはよっ、佑樹」
弾む呼吸の合間に、手短に挨拶をして、快晴は佑樹の横に並んだ。
「なんか、朝から浮かない顔だな」
「快晴が朝から元気すぎるだけだろ?」
「オレのは空元気。これでも受験勉強頑張ってるんだぜ。昨日だって担任に、今のままじゃ志望校合格は難しいって、」
あっ、と快晴はなにかに思い至ったのか、言葉を区切った。
「もしかして、浮かない顔の理由は、オレと同じなわけ?」
同じだなんて軽々しく言ってほしくない。人の気も知らないで、と抱いた怒りを振り払うように、佑樹は快晴を置いて歩き出した。慌てて後ろから快晴がついてくる。
「待てよ! なに怒ってるんだよ」
「怒ってない」
「怒ってるだろ、明らかに。昨日の二者面談、そんなに思い出したくないのかよ」
「じゃあ、聞くなよ」
間髪いれない佑樹の返答に、快晴は大きく数度瞬きをして、わかったよ、と肩をすくめてみせた。
「オレだって正直今は進路のこと考えたくないし、悪かったな」
佑樹はそこでようやく自分が、思いのほか感情的になっていたことに気づいて、歩みを緩めた。よくよく考えてみれば、事情を知らない快晴には、自分はさぞ嫌な人間に映っただろう。事実八つ当たりでしかない。それなのに、自分が悪いと謝ってくれた快晴は良い奴だ。快晴ならあるいは、オメガだと明かしても受け入れてくれるのではないか。そんな淡い期待が過ったが、同時に今朝の少年のことを思い出して、佑樹はすぐにその期待を胸の奥へしまいこんだ。
ここで事を荒立てても、なにも良いことはない。それは快晴も心得ているのか、佑樹の謝罪を聞いて、それよりさと話題は尾をひかず切り替わった。
「姉ちゃんが、なんか今度の休みに帰ってくるつもりらしいんだよ」
「凜、さんが……」
思わず快晴の姉の名を弾む声で口にしたが、言葉尻はどんどん弱くなっていった。
快晴とその姉の凜は年が離れている。凜はすでに大学生で、東京でひとり暮らしをしており、佑樹が最後に凜に会ったのは、今年のお正月のことだった。飾らない性格で、大学生になっても一度として染められていない綺麗な黒髪が印象的な女性だ。確固とした自分の意思をもっていて、下手な大人では彼女に言い負かされてしまうような強い人である。
佑樹にとっては初恋の人で、今もなお憧れの存在だった。それは幼馴染で、彼女の弟である快晴が一番よく知っている。だから佑樹の反応をすぐに訝しく思ったのだろう。
「なんだよ、微妙な反応だな。姉ちゃんが帰ってくることを知ったら少しは元気になると思ったのに」
「嬉しくないわけじゃない。だけど、」
「だけど?」
「凜さんに今の状況知られたくないな、と思って」
ああ、と快晴は大きく仰け反って天を仰いだ。
「わかるわ、それ! 姉ちゃん激励のつもりで、傷口に塩塗るようなきついこと言いそうだもん」
快晴は勝手に、佑樹の言葉を受験のことと関係付けたらしい。
それは強ち間違いではないが、当たりでもなかった。まるきり言葉通りで、彼女に情けない姿を知られるのが嫌だったのだ。
凜さんが俺の立場だったらどうするだろう、と思い浮かんだ疑問は、思わず声に出ていた。
「姉ちゃんだったら、なにがあっても自分の意思を大事にすると思うけどな」
何の疑問も抱かずに快晴が返した答えには、佑樹も同意見である。でも今なら少しだけわかる。なにもかもはね除けて自分らしさを貫くことが、どれだけ大変なことであるのかが。
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