日常と現実【4】

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日常と現実【4】

 職員室を出たものの、そのまま教室に戻る気分にはなれなかった。授業をさぼることは、素行が志望校にふさわしくないといわせる口実を、担任に与えることになるかもしれない。  それでも佑樹は、気持ちを整理する時間が欲しかった。一限だけ、と自身に言い聞かせて、佑樹は教室棟とは真逆に足を向けた。  教室近くでは人目につくだろう。校舎は教室棟と美術室や音楽室などを備えた特別棟からできており、その二棟を繋ぐような形で中央には職員室や生徒会室が位置している。  人目を避けるように特別棟に入ってしまえば、人の気配はほとんどなかった。  特別棟の教室のほとんどは、使われる時以外は施錠されている。そのなかで生徒が自由に出入りできる教室は保健室と図書室の二つしかなかった。どちらも管理者が常駐しているが、保健室の方が口実を考えるのが楽だった。佑樹自身は、部活で負った怪我の手当てのために一度だけ利用したことがある。柔らかな雰囲気をまとった、白髪混じりの養護教諭が対応してくれたのを覚えている。普段は怪我や体調不良がないと利用しない場所ではあるが、逆にいえばその口実さえ揃えば授業中など関係なく簡単に入り込めるはずだ。  失礼しますと辛そうな声で、保健室のドアをくぐれば、看護教諭は入口近くのテーブルで制服姿の男女と会話をしているところだった。  先生がひとりでいることを予想していた佑樹は、三人分の視線が集中して、思わず身を引いた。 「気分が悪くて、少し休ませてほしいんですけど……」  辛うじて目的を告げれば、生徒二人はすぐに興味をなくしたようである。離れた視線に佑樹が肩の力を抜くと、それに合わせて年若い養護教諭がバインダーとペンを差し出した。 「クラスと名前、入室時間を書いてもらっていい? それから一応熱がないか確認してね」  佑樹がペンを取った横で、養護教諭は体温計に手を伸ばしている。自然と記入の終わったバインダーと交換で、それは佑樹の手に渡った。渋々指示に従い体温計を脇に挟む間に、養護教諭は佑樹の記入した紙に視線をおとした。  佑樹が記入した名前を確認して、一瞬養護教諭の瞳が揺れる。結局ここでも厄介者かと佑樹が内心ため息をつくと、示し合わせた体温計が鳴った。取り出した体温計は6度6分を示していて、平熱と変わらない。これでは仮病と思われただろうか。担任へ連絡がいくことを覚悟するが、養護教諭は咎める気はないようだ。 「つらいようなら早退届を出すこともできるわよ」  と当たり前のように発せられた言葉に、佑樹は一瞬なにを言われたのかわからなかった。 「さっさっと帰れってことですか?」 「そうは言ってないわ。でも、教室にいたくないからここに来たのでしょ」  帰ったところで、さらに気分が悪くなるだけである。そこはわかって言っているのだろうか。 「……寝不足で朝礼で気分が悪くなっただけですよ」 「そう?」 「生徒の言葉を信じてくれないんですか?」  佑樹の返しに、養護教諭は困ったように唸った。踏み込みたくても、佑樹の言葉が牽制になって二の足を踏んでいるのだろう。そんな先生を心配してか、自分の作業に戻っていた生徒達から声があがった。 「みっちゃん先生、その子が話したくないなら、それでいいじゃん」 「そうそう。本人が休んだら、教室に戻るっていってるんだから、任せたらいいんだよ」 「そうは言ってもね……」 「ここが必要ならまた来るって。だから、今日はそれでいいんじゃないの?」 佑樹そっちのけで会話が交わされているが、佑樹はそう何度も保健室に来るつもりなどない。
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