こころ映すは赤【一】

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こころ映すは赤【一】

「亮、今日もうちで桃と待ち合わせか?」  いつものように雑居ビルの階段を下り、店のドアを開けると、中から待ち構えていたように馴染みの声がした。遠慮がちに俯いていた視線をあげれば、癖の強い茶髪を襟足で括り上げた店主が、こちらに背を向け、奥のカウンターに立っている。彼の肩越しに上り立つ湯気と僅かに酸味の効いた香ばしい香りから、ちょうど珈琲をいれていたところだったのだろう。  背を向けたままでなぜ僕だとわかったのか、という疑問が浮かび、そういえば、彼は桃の遠縁にあたるということを思い出す。それなら聞いても無駄と言うものだ。こういうときは深く追求しないに限る。僕はその疑問を飲み込み、カウンターに足を向けた。  木製のカウンターの前には揃いの椅子が並んでいる。それらはカウンターの高さに合わせて足の長い作りになっているから、僕はつま先立ちでようやく椅子に腰かけた。すると、その様子は見えていないはずの店主からは笑いを堪えたような声が上がる。僕はむっとして、意趣返しを込めて、そこでようやく先程の問いに対して口を開いた。 「相変わらず、ここは客が少ないから都合がいいんだよ」  喫茶浮雲――それがこの店の名である。酸味の効いた珈琲の香りと静かに流れるクラシック音楽で満ちた店内は、暖色を帯びた照明で統一されており、革ばりのソファーと木目調のテーブルが心地よい空間を作り出している。カウンター席とテーブル席を合わせれば、二十人くらいが入れるか入れないかの小さな店だ。駅と繁華街との中間点に位置しており、店の雰囲気と、何より目の前の店主の容貌を考えれば若い女性で賑わっていても可笑しくないような店である。しかし如何せん、雑居ビルの地下に存在していることから、その存在を知る者は少ない。いたとしてもこの辺りを職場にしているサラリーマンか、常連と言えるような年配客といったところだろう。したがって、学校の奴らに見つかる心配はなく、桃と落ち合うのは決まってこの喫茶店であった。  だがこの店の主、司さんはその事実を認めたくないらしく、顔をこちらに向け不機嫌そうに眉を寄せた。 「おいおい、そんな言葉がよく俺の前で言えたもんだな」 「と言っても、司さんは桃に甘いだろ? そんな理由で店を自由に使わせてくれるくらいには」 「……ったく、言うようになったじゃないか。まあ、あいつは大切な妹みたいなもんだからな」 「へえ、妹ねぇ」 「なんだ、羨ましいのか?」  僕は一人っ子だから、羨ましくないと言えば嘘になるだろう。しかしそれ以前に、そんなことをさらりと言ってしまえる彼らの温かさに僕は憧れを抱いてしまう。きっと司さんは血の繋がりを抜きにしても、懐に入れたものに対してはその言葉を戸惑うことなく口にするだろう。そしてそれは、桃にも言えることだ。それが、彼らにとって当たり前のことなのだ。  そういう考えに行きついて、僕はやるせなくなくなって、 「あー」  と言葉にならない声を出し、カウンターにおでこから突っ伏した。頭上では司さんが驚く気配がして、僕の気持ちはちょっぴり浮上する。しかし司さんが発した言葉に、僕は瞬時に飛び起きた。 「まだまだ子供だな」 「誰が子供だって!」 「そうやってすぐにむきになるところがまさにそうだろ。でも、まあ、俺はお前に感謝してるんだけどな」 「感謝?」 「ああ、桃の初めての仕事相手がお前のような奴でよかったって」 「それは……」  むしろ――僕の方が感謝している。  彼女に出会ったからこそ今の僕がある。彼女らの血族がそれを仕事にしていようとも、それは変わることのない真実だ。だからこそ僕は、今もこうして彼女と共にあることを選らんでいる。  僕が彼女に投げかける言葉で、彼女が少しでも元気になるように。彼女からもらったこの色彩豊かな世界を少しでも楽しめるように。  その思いが顔に出ていたのだろうか、司さんは僕を見て、 「俺から言うのもなんだが、あいつのことよろしく頼むぞ」  と言った。  僕が迷うことなく頷けば、司さんは満足そうに笑う。そして、 「遅かったな、桃」  と声を投げかけたのは店の入り口だった。つられて僕が目をやれば、そこには制服に身を包んだ桃と、黒いランドセルを担いだ見慣れない男の子が手を繋いで立っていた。
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