はじまり

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はじまり

「要は、夏みかんをうどんにしたいんだろうな」  隣に座る先輩は、口喧しい上司が視界の端から消えたのを確かめから、不満そうにそう呟いた。僕は少し首を捻って、それから、ああ、と頷く。 「コイツを有名なものにしたいってことですね。香川県における、うどんくらいに」  説明不足に定評のある彼は、ブンと縦に首を振り下ろした。今、僕らの両手には大振りの夏みかんがすっぽりと収まっている。清涼な香りに鼻をつかれて、思わずキュウと目を細めてしまう。 「一人三つも持ち帰れなんて、無茶なことを言うよ。独身男性の部屋にこんな爽やかなものがあったって虚しいだけだってのに」 「まあまあ、逆にこう考えてみてくださいよ。タダでビタミンが取れるんです。お得じゃないですか、独身男性には特に」  口ではそんなことを言いつつ、僕も内心彼と同じ気持ちでいた。そもそもこの手の果物は皮を剥くのすら面倒くさい。  しがない県職員の僕らに、上司のさらに上司から出された問いは、我が県のシンボルである夏みかんを生かした目新しい商品を考えてくることだ。ゼリーやジュースなどありきたりなものはダメらしい。挙句、県民のソウルフードになるような、の無茶な条件付きである。 「それにしても、夏みかんってこんな大きいんですね」  目の前の果実は、僕の知っている蜜柑よりも何回りも大きい。 「確かに、元々夏みかんは蜜柑よりデカいけど、コイツは夏みかんの中でも特別だよ。甘さと香りと大きさに特化した新品種、『懐姫(なつひめ)』だから」  懐姫、口の中でその言葉を転がしてみる。 「なんか、絶妙にノスタルジーな名前だなぁ」  僕自身ですらよく真意をわかっていないその声に、先輩はまとまりの無い返答をする。 「そうだな、特に柑橘系は変に懐かしい気持ちになる」  そうですね、と僕はぼんやり口ずさんで、鼻からゆっくり息を吸い込む。    生の果物ならではの透き通った香りは、すとんと体の中心に落ちて、そこから全身へふわりと広がり、怠慢や不精を押し流していくような気がした。
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