本編

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俺に生活力皆無なことは認めよう。だが、これは無いと思う。 「おかえりなさい、セイラさん」 「はいはいただいま。今日カレー? うまそ」 おまけに順応力が高いと思う。普通、押しかけてきたストーカーと半同居始めないだろ。 鶴は押しの強さもさることながら、外堀から埋めるという行為が上手かった。或いは俺がとんでもなく絆されやすい性質だっただけかもしれない。 『隣が空いてたので越してきました。よければどうぞ』 一度目の邂逅のあと、もう一度会った鶴が言ったことがそれだった。 二度目の邂逅は思うほど遠い話ではなかった。なにせ、俺が彼の手を払い退け慌てて逃げ帰った翌日には引越しのトラックがアパートの前に停まっていたのだから。こいつは確実に引越しの日取りをしたあとに声を掛けてきたのだ。 それでも当然俺は警戒したし、差し出された引越し蕎麦も渋々受け取った形だ。今時引越し蕎麦って贈られることあるのかよ。ちなみに、前に住んでた住人は顔すら知らない。いつの間にか空き部屋になってたことすら鶴が越して来て知ったくらいだ。 まあ既製品だし、食べ物に罪はないし。そう思いつつその日の晩に食べた蕎麦は美味かった。 「カレー。そういや二度目だな」 「えっセイラさんあれ食べてくれたんですか!?」 「おいどういうことだよ。贈っといてお前がそれ言うのか?」 「え……いえ、てっきり捨てられるものだと思っていたので。だって会って三度目の人から渡される手料理なんて、流石に」 俺は会って三度目の人間に手料理を渡すほうが非常識だと考えていたが、実は渡された手料理を食べるほうが非常識だったらしい。なんてトラップだよ。 「うっ……でも、しばらく麺つゆで蕎麦しか食ってなかったし。カレー蕎麦美味いかなって」 「セイラさん、絶対俺以外から与えられた食べ物は食べないでくださいね……」 「人をペットか何かみたいに言うなよ!」 俺だって少しは躊躇った。けど、仕事帰りに隣の部屋から漂ってくる美味しそうなカレーの匂いは俺の心を傾けるのには十分だったのだ。結局、人の心を掴むなら胃袋を掴むのが一番手っ取り早い。 あれよあれよと餌付けされた俺はいつの間にか差し出されたタッパーを受け取るのではなく、俺が彼の家にお邪魔して夕食をいただく形に落ち着いていた。しかも帰宅時には我が物顔で「ただいま」と言ってしまう始末だ。おかえりと言われたらそう返しちゃうだろ、普通。 「カレーのにおいが移ったら嫌でしょう?」と促されスーツを脱ぎ、白シャツも汚れが怖いからと鶴の用意したスウェットに着替えて席に着く。楕円のカレー皿には右に形の整えられた米が、左にルーが盛られている。 「米が紫だ」 「雑穀米と言うんですよ。もち麦とか粟、ひえが混ぜてあります」 「もち……」 「お餅ではないですねえ」 俺のが歳上であるはずなのに、鶴は俺に対して子供へ言い聞かせるような物言いをする。まあ、俺も食に関しては関心が薄い分知らないことのが多いからな。米だってレトルトしか食わないから炊飯器も持ってないし。 米が紫色の理由にもさほど興味がなくて、生返事でさっさと会話を終わらせ手を合わせる。目の前にある湯気の立つ皿のほうが大事だ。 「っ、美味い!」 長時間煮込んだほろほろとした鶏肉と、反対に全く煮崩れしていない大きめの人参やじゃがいもがごろりと入ったカレーは、見た目だけでそれなりにインパクトがある。カレーなのにどことなく白っぽくて、あまり辛そうには見えないのに俺好みの辛さだった。こういうのをスパイスが効いてると言うのだろうか。辛いだけではなくて、トマトらしき酸味と甘みがある。あとはコクというのかまろやかというのかわからないが、後味がいい。 あまりにも俺が美味い美味い言うので「お世辞はいいですよ」と謙遜した鶴に簡単な味の感想を伝えると、彼は目を丸くした。 「ちゃんと味覚は働いているんですね」 「それどういう意味?」 「いえ、確かにトマトを入れましたしカシューナッツで味を整えました。しかし一食100円のレトルトカレーと比較して褒めれるのも……なかなか心に来る……」 「もう感想言わねー」 「あっ冗談です。ちゃんと教えてください、貴方好みのものを作りたいので」 「どんなのでも美味いよ」 こうして夕飯を共にする間に気づいたのだが、鶴は俺の食べるところを見るのが好きらしい。無言で飯を掻き込んでいる間にも、なんだか妙に幸せそうな目を向けてくる。 だからといってサラダをもそもそ食ってるときに呟かれた「ウサギちゃん……」は聞き逃さなかったからな。成人男性に妙なフィルター掛けて見るな。 食後、洗い物は俺が片付けることになっている。なっているというか、そうした。俺が社会人、鶴は学生。用意してもらっている飯の対価として釣り合わないのはわかっているが、頑なに食費を受け取ろうとしないからせめてこれだけはと申し出たのだ。 最初こそ背後から「新婚さん……俺のお嫁さん……」という独り言と絶え間なく聞こえる連写音にだいぶ、かなり引いたが今では気にしないことにした。気にしていたら身が持たない。 お隣さんなだけあって、鶴の部屋の間取りは俺のと同じだ。食事を作るのも片付けるのもやる気を失くすほど狭いシンクで皿を洗い、洗い物を全部終えてから水切りラックをそこに掛けた。シンクには水切りラックを掛けたままじゃ洗い物もできないスペースしかない。 「こんな環境でよく料理する気が起きるよな」 「セイラさんがいなければ俺もあまり料理する気は起きませんね。食事自体を抜くことはなくてもゼリーとかで済ませます」 「へー、んじゃ俺も鶴の健康買うのに一役買ってるわけか」 「はい。俺なりの愛情表現ですから」 「は、恥ずかしいやつ……!」 思わず顔が赤くなる。それを隠すように俯けば上から見下ろしていた鶴には見えない。代わりにくすくすと笑う声が聞こえた。 「あんまり歳上を揶揄うんじゃねえ」 「揶揄ってないですよ、本気です」 あしらい方まで手慣れてやがる。俺だけが本気で動揺するのも恥ずかしくて、この手の流れになったときはいつも会話をぶった切ることにしてる。 「そういや、鶴ってこんなのんびりしてていいのか? 大学生って案外暇じゃないイメージだけど」 鶴はてっきり料理に関心があるのかと思えば、大学で学んでいる内容は栄養学や調理とは全くの別物であるらしかった。マクロ経済学とかミクロ経済学とか言われたところで俺には何のことだかわからないから、半分くらいしか聞いてない。 卒業したのと違う学校のカリキュラムなんてわからないが、今が試験の時期じゃなくとも課題はあるだろう。レポートなり制作物なり、大学生と提出物って切っても切り離せない。 ところが、鶴は「ああ」と何でもない返事を前置きにして俺の心配を斜め行く回答をした。 「セイラさんの為なら1年くらい留年してもいいかなって」 「…………は?」 鶴は爽やかな顔に恥じらいを含んだはにかむ笑顔を浮かべているが、向けられた言葉に俺は笑えなかった。 「ッんの馬鹿!! お前、馬……ッ鹿野郎! お前年間の授業料いくら掛かるか知ってんのか!?」 鶴はここから近場の私立大学に通っているらしい。今のところ俺のようにバイトで授業料を賄う道ではないものの、去年は特待生として全額免除で済んだのだと言っていた。つまり、留年なんてなったら途端地獄を見るってことだ。多分、大学に納めるだけで100万くらい掛かるはず。加えて学生生活が一年長引くってことはその分親のすねをかじる期間が長くなるってことで、生涯の年収がこの先稼げる額から毎年一年分減るってことだ。 そんなことを怒鳴る勢いで説くと、彼は目を丸くしていた。あまり深く考えて来なかったか、それほど重要視していなかったのかもしれない。 「空いていたから」と学生生活半ばに引っ越すあたり随分と甘やかされた裕福な家庭に育っていそうだ。と言っても、簡素な部屋の中を考えるとそれほど引っ越しに必要な荷物もなかったのかもしれないし、親に黙って引っ越したとも考えられる。新品の圧力鍋や包丁もここに来て買い揃えたそうだし。 何にせよ、いち社会人として聞き捨てならない言葉だった。 俺の勢いが収まると黙って聞いていた鶴が口を開く。心なしか目を輝かせているように感じた。 「俺、初めてセイラさんのこと歳上なんだなって実感しました」 「お前真面目に聞いてたか?」 「しっかりしてる人なんですね。やっぱり俺には貴方みたいな人が必要だ」 「…………はぁ」 怒りが収まって呆れてきた。ここまで言って聞かないなら根本的に価値観が違うんだろう。それでももう知らないと言い切れないのは、こいつが留年しようとする理由が俺の為だって言うせいだ。 「マジで留年したらもう俺ここ来ない。顔も見てない鶴の親御さんに顔向けできないし」 「え!?」 「えじゃねーだろ、妥当な判断だよ!」 こいつなんて顔をしてやがる。けど、捨て犬のような顔で縋られても俺の意志は変わらない。 「だって卒業後もここに住み続けられるとは限らないし……俺、卒業なんかの為にセイラさんと離れたくありません」 「親御さんを泣かせる言葉吐くなよ大学生が」 「せめて! せめてセイラさんの体重が標準になって問題なく抱ける触り心地になってから……」 「いや本当に何言ってるかわからん」 もしかして俺を肥やすのは頭から食べる為の計画だったんだろうか。肉食サークルのハイエナはこいつのほうだった。 思わず距離を取ろうとすると、俺の両手を鶴が掴んだ。ガッ!と勢いよく。逃さないと言わんばかりの気迫に思わず動きが止まる。 「俺が卒業まで特待生で通ったら卒業後一緒に住んでくれませんか?」 とても真面目な顔だった。出逢った当初と同じく、顔面の圧で思わず身が竦む。だが、断りははっきり言わなければならない。俺のためにも、彼のためにも。 「それ俺に何のメリットが……いやあるか、飯。……いやいや駄目だって、逆に鶴に何のメリットもないじゃん」 「ありますよ、セイラさんのそばに居られる」 「それがデメリットだっての」 「本気で好きなんです。どうしてわかってくれないんだ」 そりゃ本気だろうよ。カフェ店員の本名ですらない名札から特定して今に至るんだから。俺も警戒心薄かったなと今更ながらに思うが、現実身体に何の不調も起きてないし、何の被害も受けていない。何なら最近はこいつの言う通り、体重が増えて調子が良くなったとすら感じる。爪が割れないし髪のパサつきが少なくなった。 いやでも駄目だろ。最初にこうして流された結果が今なのだ。 「お願いします。ずっと貴方のそばにいたい」 しかもずっとって。卒業後ってその後無期限かよ、期限設けてた方がいいな。 そんなことを考えてしまうあたり、俺の心は既に頷く方向に進んでしまっているらしい。黙り込んだ俺の顔を窺いながら鶴が駄目押しのような説得を始める。 「今すぐ決めろとは言いません。じゃあ……今年の成績が去年と変わらず特待生だったらお願いを一つ聞いてくれませんか?」 「そのお願いの内容今言え」 「うっ……じゃあ、俺のことハルカズって名前で呼んでください」 無茶を言われたら困るから牽制のつもりだったが、お願いされたのはなんてことない話だった。それくらいなら、と軽い気持ちで口約束をする。 俺は知らなかったのだ。実は鶴の手元には先月の段階で特待生の通知が来ていたこと、翌日しれっとした顔で彼がそれを差し出してくることなんて。 こいつ絶対計算高い。俺がちょろすぎるなんて認めないからな。
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