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カルトン
「ひえっ」
釣銭を渡すとき、注意をしていたがふとお客の手に触れてしまった。昨今では釣銭の手渡しは推奨されないが、それでも時々手渡しを無言で要求する人がいる。
キャッシュトレーに小銭を並べようとすると、目の前に手を差し出して直接渡すように促すのである。仕方なくそれに従うが、相手の手にお金を落とすとき片手では憚りがあるので、反対の手で相手の手を覆うようにするのだが、そのときちょっと触れてしまうのだ。
「あんた冷たい手してるなあ」
言ったのは嫌味な口調の老人だった。突然のことでキョトンとしていると追い打ちをかけてくる。
「顔つきまで冷たい女だねえ。男みたいな手して握りがいのない」
あまりの言い草に、つい申し訳ありません、と答えてしまったのが、いま思い出しても口惜しい。確かに冷え性だが、握りがいがないとはとんだセクハラだ。なんとも腹立たしい言い種だった。
父親譲りの長い手指は、およそ可愛らしさなどなく、同じく細く切れ長い両目と相まって、情の薄そうな印象を同性異性関係なく与えているらしい。それが一層この手の体温を低いものに感じさせるに違いなかった。
◆◆◆
ある日のこと、ロッカールームでたまたま一緒になった同僚のマミちゃんに不意のことを尋ねられた。
「エツコさん、いつも六時頃に来るイケピの人、お知り合いなんですか?」
唐突なのがマミちゃんらしさだが、この小首を傾げる感じに、どうやら諸氏はやられているらしい。同じ大学生だがマミちゃんは可愛らしさを具現化したような女子である。イケピなんて言葉を口に出したこともない自分はどんな目で彼女を見返していただろう。
だが、あの人のことだろうなと思い浮かぶ人物があった。
「あー、その人なら多分わかるけど、知り合いじゃないよ」
そう返事をするとマミちゃんはあからさまにがっかりした。なーんだ、と言って唇を尖らせる。
「知り合いだったら紹介してもらおうかなあとか、思ってたのに」
「無理無理、名前もわかんないし。……でもなんで知り合いって?」
普段の媚びた感じを半減させたマミちゃんは、仕方ないと言った風情で面倒そうに口を開く。
「エツコさんがいると、あの人必ずエツコさんの方に並ぶんですよ。こっちが空いてても。だからそうなのかなーと思ったんです。エツコさんに限ってカレピじゃないなあと思ってたんで」
なんとなく失礼なことを言われていることはわかったが、その男性客がわざわざ自分のレジを選んで並ぶと言うのには今まで気付かなかった。マミちゃんを選ぶお客がたくさんいることは知っているが。
「こないだお釣り渡すとき手を触っちゃったんですけど、すっごいスベスベしてて大きい手だったんですよー」
うっとりと言う彼女に、つい「え」と口をはさむ。
「ちょっとダメだよマミちゃん。なるべく触れないようにって言われてるでしょう?」
「まあまあいいじゃないですか、少しくらい。それにあのイケピの人、すっごく手が冷たいんです。ずーっと触ってていたいくらいひんやりしてて気持ちいいなあって」
何だそれは、と面食らってしまった。
「今度来たら声かけちゃおうかなあ」
「…………」
好きにすればいいと思いつつ、その場を後にしたが、その日のうちにその「今度」がやってきた。
その人はおそらく近所の会社に勤めていて、すらりと高い身長が印象的なデキル感じのサラリーマンだ。この店には出先から戻るタイミングで立ち寄るようで、日によっては残業のための夜食などを買い込んでいく。
ロッカーでマミちゃんとあんな話をしたせいで、今日は来店するなり気が付いてしまった。ふと目があったのがバツ悪く、「いらっしゃいませー」と誤魔化すように言ったら会釈をされてしまい余計に気まずい。幸いなことにマミちゃんは休憩中で、バックヤードで爪の手入れをしている。ひょっこり出て来たりしないでくれ、と心のなかで両手を握った。
店の中は適度にお客がいて、何人かレジ対応をしているうちに件の男性客は店内を物色してレジに回ってきた。手にはカップ麺とコーヒーに固焼きの煎餅を持っていた。どうやら今夜は残業であるらしい。
手早くレジを打って金額を告げると、いつも通り千円札と端数の小銭をキャッシュトレーの上に乗せてくれる。普段ならそのまま青い会計盆に釣銭とレシートを乗せて返すのだが、携帯のメールに意識を向けていた男性客は反射的に手を差し出してきた。ふとマミちゃんの言葉を思い出す。「すっごく手が冷たいんです」だと。
(この手より冷たい手をした人がいるものか)
ほんの興味本位だったがその手に釣銭を手渡したとき、少しの意図が働いて、ついつい触れた男性客の手は、かつて感じたことのないほどの冷たさだった。自分より手の冷たい人がこの世にいないとは思わないが、そういう人に巡り合うことが稀有だと信じられるほど自分の手は冷たいのである。
余りの冷たさにすぐに手を引っ込めることができずにいると、冷たい手の男性客の驚いたような目と視線がぶつかった。
「あ」
「あ、すみません。つい」
男性客は手を差し出してしまったことを詫びて微笑した。
「い、いえ、こちらこそ申し訳ありません……」
恐縮してしまった店員を気遣ってくれたのだろう。彼は釣銭をしまって商品を受け取ると、おそらくは普段口にしないような軽口を言った。
「ありがとう。暖かい手してますね」
「…………」
彼より暖かい手をした人はこの世に大勢いるだろう。だけど、この手を暖かいと言う人は、今のところあの人だけだ。
それは、少しだけ指先に血の巡りを感じる夜だった。
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