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ノワール
朝から降り続いていた大雨が嘘のように晴れた夕方、路面に残る雨の痕は、オレンジ色の夕焼けを映し返して煌めいていた。
無用の長物になってしまったた七〇センチの雨傘を鞄に引っ掛けて改札を出ると、途端に懐かしい風景に包まれる。今日は久々に実家で飯を食うことになっていた。
父親が単身での海外赴任から三年ぶりに戻ってきたので、家族で集まって慰労の食事会をしようということになったのである。嫁いだ姉貴の予定が今日しか合わないと言うだけで、こちらの予定はまったく確認されなかった。
一歩降り立った駅前は独り立ちした頃と何の変わり映えもない。ここはこれと言った特徴のない、日本中どこにでもあるような駅前だ。改札の外には小さなロータリーから始まる商店街がある。昔から変わらない風景で、最初に目に入るのはパチンコ屋、それから牛丼店に弁当屋と並ぶ。最近の商店街にしては人の気配のある方だが、地元の人間向けの仕様であって、よそから客を引っ張ってくるような話題や潮流とは無縁の商店街だ。
(歩いていくか)
雨が降ったままならタクシーにでも乗るところだが、歩いて十五分程度の距離だ。風景に残った雨の匂いを嗅ぎながら帰るのも悪くない。そう思って歩き出したとき、不意に二人乗りの自転車が鼻先をかすめていった。思わずたたらを踏んで顔を上げると、男子高校生がこぐ自転車に女の子が後ろ向きに座っていた。見慣れた制服からどうやら後輩にあたるようだが、卒業したのはもう十年は前のことだ。懐かしいというような感想よりも、そういう時期があったなと思うくらいである。遠ざかっていく女の子は、詫びのつもりかペコっと頭を下げた。
ほっと息をついて歩き出すと、スーツのポケットの中でマナーモードの携帯電話が震えた。手に取るとメッセージは母からだ。何でもいいから泡の出るワインを買ってきてほしいとある。それと何か甘いものを、と。
甘いものなら買ってある。肩に担いだ通勤鞄と同じ方の手に提げた紙袋には、固めのカスタードクリームを詰めたシュークリームが入っていた。
「泡の出るワインねぇ……」
胸のうちでぼやいたが、商店街にはシャンパンみたいなものを売っている店があったか。酒屋はあったが、と商店街をあちこち見ながら歩いていると、アーケードの端にエンジ色の看板を出しているスーパーを見つけた。それは輸入食品などを豊富に揃えているスーパーのチェーンで、少しお高めのイメージのある店だ。いつの間にできたんだろう、と思いながらその店に足を向けた。
何もないような町にも、こうした店の需要があるのか、と思えば時の移ろいを感じる。ただよく見ると、それと似た変容は着実にこの街にも訪れているようで、古い町並みが新しい看板を掲げてそれなりにやっている様子が目に入ってきた。少し前までは個人店ばかりだったように思うのだが、それもまた潮流というやつかもしれない。
エンジ色の看板に近づくと自動ドアが開いて、旅番組で流れるような軽快なBGMが押し寄せてきた。湿気の残る外気とは違い、空調の利いた店内には清涼な空気が漂っている。ワインが並んでいそうな売り場を探し歩くと、それはすぐに見つかった。端から端までびっちりとボトルの並んだ棚を見渡せば、フランスを筆頭にイタリア、ドイツ、スペイン、ポルトガル、カルフォルニア、オーストラリア、ニュージーランド、アルゼンチン、南アフリカ、トルコなどなど世界中のワインがずらりと並んでいる。中には漢字で銘柄の書かれたボトルもあった。
(日本のワインもあるんだな)
一本を手に取って、判りもしないがくるりと裏面のラベルを見る。ピノ・ノワールとは何か。ずしりと重いそれは手にした印象とは違い、それほど高くない値段がついていた。
二十八歳にもなる今日まで、意識してワインと向き合ったことなどないから、それが高いか安いか基準すら判らない。だいたいのワインは二千円前後で売られている様子だ。時々五千円くらいのものがあるようだが、お祝いだと思えば買えないこともない値段だった。
ただ冷蔵庫のようなケースに入っているボトルには思わず「えっ」と呟いてしまうような値段が掛けられている。この街で一本七万円もするようなワインを買う人間がいるとも思えないが、この店のマーケッティングは大丈夫なのかしら。鍵が掛けられている様子からも、まあ滅多に買う人はいないだろう。
手にしていたピノ・ノワールを棚に戻して再び目を皿のようにした。泡の出るワインを探さねばならない。
ところで知っているだろうか。泡の出るワイン、イコールシャンパンではないと言うことを。そのことを今日初めてこの売り場で知った。フランス産の一部のものだけがシャンパンを名乗れるらしい。
新しい知識を取り込みつつ、ワイン売り場の一角にシャンパンなどを集めたコーナーを見つけて目星をつけ始めたころ、それまで無人だった売り場に、ふと人の気配を感じて振り返った。
そこには同じようにボトルを手にしては、ラベルを眺めたり裏面を見たりしている女がいた。年回りも同じくらいだから、場所を考えると同級生だったりするかもしれない。女性は吟味をするようにも、逡巡しているようにも見える。身なりは勤め帰りのようだったがやたらと荷物が多いのが目立った。
しばらく見るともなしに様子を見ていると、その女性とふと目が合ってしまった。気まずさから逃げるように、小さく会釈して目を逸らしたが、先方はこちらに向けた視線をなかなか外してくれない。それどころか、ワインボトルを手にしたまま近づいてきた。
じろじろと見ている気はなかったが、向こうの気に障っただろうか。変に文句を言われたりしたら素直に謝るしかなさそうだ、と覚悟して視線を女性に戻した時だった。
「もしかして立花?」
「……あ、はい」
突然名前を言い当てられて驚いていると、件の女は表情に笑みを浮かべた。それはどこか見憶えのあるいたずらな表情だった。
「うちやってうち、園田です。憶えてへん?」
あ、と思い当たった。高校の二年と三年が同じクラスで、いっときは一緒に遊ぶグループにいた。だいたい六人くらいのグループで、友達以上恋人未満の、今思えば少し痺れるような心持ちが介在するグループだ。彼女はその中にいて、華やかな雰囲気の女子だった。他の女子たちよりもほんのちょっと仲が良かったのは、好きな音楽が一緒だったり嗜好の類似性があったからのように思う。もし自信や勇気と縁があったなら、それなりの関係になっていたかもしれないと思うのは過剰な自意識だろうか。
「久しぶりやん。まだこの辺に住んでるん?」
「いや、今は都島のへんやけど」
「あぁ、大阪なんや」
何とはなしに居心地のよくないような、ふわふわした雰囲気は昔と変わらない。当時は女子という存在に対して妙に気遅れた感情があった。大人になってしまった今では不思議な感覚である。
思春期と言われる頃には、男女間にどこか女子に優位な構造があったように思うのだ。それが社会人になって三年くらいすると徐々に感じなくなる。社会の仕組みや風潮のせいなのか、それとも自分の中に社会と通ずる古い価値観があるせいなのか、それは判然としない。彼女に声をかけられた瞬間、突如よみがえった居心地の悪さは、同時に心を針でつつくような懐かしい刺激をもたらした。
「実家はまだこっちやから、今日は偶々……」
たどたどしくなる口調に内心舌打ちをする。しかし園田はそんなことにはお構いなく、にやにやと微笑んだまま視線を売り場の棚に向けた。
「立花もワイン? あ、シャンパンかな」
「ああ、うん。おかんが急に買って来いって」
「へえ、お母さん懐かしいわ。元気にしてはる?」
「まあ元気かな。しばらく会うてへんけど……」
そう答えると園田は、あははと姦しく笑った。十年たっても彼女のそうした部分は当時のままのようだ。気遅れた気持ちはちっとも変わらないまま辺りを見回す。幸い店内は空いていて賑やかさを咎める目はなかった。
そういえば、一度だけ園田はうちの母親に会っているのを思い出した。そのことを口にすると、彼女はそうそうと言って気安げに肩をぶってきた。
「あの時、お母さんに彼女や思われて二人とも困ったよね」
それは、たまたま二人だけになった帰り路に、園田がうちまでついて来たときのことだった。飼っていた猫に興味を示したので、何となく誘ったのを彼女が断らなかったのだ。
ところが間の悪いことに、普段は仕事で留守のはずの母が家にいて、更に間の悪いことに大学生の姉貴が講義をさぼって帰ってきたのだった。今思えば、あの出来事があってから急に園田と疎遠になった。互いにグループの集まりに顔を出さなくなり、そのまま卒業して今日までそれきりだから、口をきくのは十年ぶりということになる。十年一日とはよく言うものだ。
レジでそれぞれ買い物の精算をしたあと、同じ方角に歩くことがわかったので並んで歩くことになった。いつの間にか外はすっかり暮れていた。園田は女子の中では背の高い方で、ヒールを履いていると目線はほとんど同じ高さになった。
「うち、あの頃ちょっと自惚れとってんよ」
「?」
思いがけないことを言われて、ワインを提げた右手側を歩く園田の横顔を盗み見た。彼女は前を向いたまま、自嘲気味に乾いた声で笑う。
「立花のお母さんに、彼女かって言われたとき悪い気しいへんかったし、立花はうちのこと気に入ってるんちゃうかと思ってたん」
「……ふうん」
ほかになんと答えていいか判らずつまらない返事をした。園田は「へへ」とやっぱり自嘲した笑い声を漏らした。
「あの時お姉さんにも会ったやん? 小さい声で立花に、なっちゃんはどないしたん、て言うてた」
ああ、そう言えば、と姉貴がそんな冗談を言ったことを思い出した。それは幼稚園の頃仲の良かった隣家の女の子のことだ。小中の頃は同級生たちに、仲の良さを散々からかわれた。誰にでも身に覚えがあるようなことだろうが、その頃はひどく傷ついたのを思い出す。
「あれ、二組にいた神崎さんのことやろ?」
「そうやったかな」
「お淑やかそうな子やったやろ。勉強もできたみたいやったし」
「…………」
「なんかそれで急に気後れしてさ。卒業までずっと素気なくしてしもたからずっと気になっとってんよ」
そうか、と思った。女子も、学生時代の強者である女子も気後れとかするんだな。そう思うと、何か滞っていた流れがゆっくりと淀みを消していくようだった。
後は互いに無言だった。街灯の明かりが辻々を照らし、黒々とした闇の中にぼんやりとした灯火の離れ小島を浮かび上がらせる。いくつかそれらを踏み越えていった先の、車の走らない交差点の信号機の下に園田は立ち止まった。
それじゃあ、うちこっちやから、と暗い街かどを指さす。やがて信号は赤から青に変わったが、相変わらず車はやってこない。
「あのさ、神崎とは付き合ってたとかないで」
「え、なに急に」
園田が心底それがどうかした、という顔をしたので少し驚く。まあ、そんなもんだろう。独りよがりな気持ちにそれはしたたかな一撃だった。胸の中にたまっていた息を全部吐くと自然と笑みがこぼれた。
「何でもあらへん。まあそのなんや、そのうちゴハンでも行こや」
「あはは。ありがと。でもうち子供おんねん、せやし遅い時間は無理」
そういわれて思わずぶっと吹き出した。さらなる追撃だった。自分で自分を笑いたい気分とはこういうことだ。
「まじか。歳いくつなん」
「もう幼稚園やで、今年四歳なる。今から実家に迎えに行くとこ」
そうかワインは実家への土産か。
「じゃあ、またそのうち」
連絡先を交換したわけでもないから次の機会などないだろうし、子持ちの人妻を誘うような意気地は持ち合わせていない。やはり彼女には気後れを感じたままの関係で終わりそうだ。
気持ちを締めくくったとき、園田が歩き出しながら手を振った。彼女の姿が見えなくなるまで見送ってから、実家へとようやく足を向ける。ずいぶん時間を食ったような気がして、携帯電話で時間を確認すると何件もメッセージが着信していた。
送り主は姉貴でワインは買ったか、まだ帰らんかと催促する内容だ。買ったで、と返信するとすぐにメッセージが返ってくる。画面には早く帰宅せよとある。はいはい、と独り言を言いながら園田の去った道に背を向けて歩き出した。
懐かしの実家にたどり着くと、いったん鍵を取り出したが思い直してインターホンを鳴らした。中から母親が顔を出して「アンタ鍵はどないしたん」と言う。持ってるけどと答えるが、実家を離れて五、六年である。養われていた頃のようにいきなり鍵を開けてただいまと言うわけにもいかないような気持がするのは可笑しいだろうか。
「はよ上がり。なっちゃんも来とるさかい」
「は? なんでなつ?」
言いながら合点はついていた。なつは確かに幼馴染だが姉貴の幼馴染でもあり、どちらかと言うと姉貴との繋がりの方が主である。さっき道で別れたばかりの園田の後姿を思い出して、なぜだか複雑な気持ちになった。
靴を脱いで廊下に上がった時、ポケットの中で着信音が鳴った。開くとそれはSNSを介したダイレクトメッセージで、送り主は園田だった。
気が向いたらいつでも誘って
言い忘れてたけどうちバツイチやねん(*^^)v
昔懐かしい顔文字に苦笑いをした。
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