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ジョーヌ
電車の中から眺める街並みは夜に包まれていて、車窓に自分の姿がうっすらと反射している。手に抱えた花束は立派なもので、寄せられた中に黄色のスイセンがあるのを見つけて少し指で撫でた。
今日、三年勤めた会社を退職してきた。送別会があって花束を贈ってくれるのだから、円満に辞めることができたのだと思う。それなのに少し後ろめたい気持ちに心が染まるのは、今より条件のいいところへ移るのが理由だからだろうか。来週から移る新しい会社のことを考えても、浮き立つような気持ちは心のどこにも見当たらなかった。
電車の中は空いていたが、なんとなく座る気分ではなかった。立ったまま、花束を抱いて電車に揺られていると、不意に高校を卒業した日の事を思い出した。あの日の花束はこんなにしっかりしたものではなかったが、卒業生全員に配られるミニブーケには白いスイセンがあった。冬に咲く花だから選ばれたのだろう。この花を見ていると、あの日の心模様と今のそれとが似通っていることに気付いて、成長しない自分の内面に自嘲めいた微笑がこぼれた。
◆◇
高校最後の年、そう呼ぶには憚られるほど甘やかさに欠ける恋人がいた。同級生でたまたま同じクラス、たまたま席が近かった彼とは挨拶を交わす程度の関係のまま、二学期も半ばが終わった頃ほとんど唐突に付き合うことになった。
文化祭がきっかけだった。周りの友人たちがくっついたり離れたりしているのを傍目に、青春を謳歌している彼女たちを羨ましく感じていたのは本当だ。しかしだからと言って、なんとなく流れで付き合うことになったのは、今思い出すと我ながら浅はかかだったのではと思う。中高生の恋愛自体がそういうものだと言われてしまえばそれまでだが、それでもその思い出には苦さがあった。
当時、恋愛に対してこれといって強い想いがあったわけでもなかったが、相思の相手がいるという状態は、当時の青い女心に満足感を運んできたのは確かなことだった。客観的な意見を引用すれば、彼は学校の男子たちの中では格好のいい方で、誰かに話したり写真を見せたりする時は少し誇らしい気持ちになったりしたものである。
ただ、恋人同士になってからしたことと言えば、帰り道一緒に歩いたり、たまに一緒に弁当を食べたりしたくらいで、デートらしいデートは水族館に行ったのと、映画を観に行った二回だけしか記憶がない。誕生日に贈り物をしあったり、バレンタインにチョコレートを用意するくらいのことはしたが、他には一度キスをしただけだった。
彼はファーストキスだったらしいが、自分は中学の時に何となく済ませてしまっていて、ちょっとだけ優越感を味わったようなことを憶えているが、そのことも今思うに度し難い感情だ。とにかく苦さしかないような思い出の多いその恋人をフッたのが卒業式の日だった。きっかけは友達の一人が嫌味交じりに言った一言だった。
「松山くんさ、なんか二年の女子に告白されたらしいよ」
それを聞いて他の友人が聞いてもいないことをわざわざ話した。
「あいつ結構モテるよね。七組の西条って知ってる? あの娘も松山のこと狙ってたらしいけど、リサと付き合ってるよって言ったら吃驚してたな」
「リサ、油断してたら略奪されたりして」
カチンときた。今はその感情の記憶すら恥ずかしい。
ただ、その時苛々としたのは本当で、ファーストキスだったくせに何がモテるだ、などと思ったことが忘れられない。今でもふとした時に記憶が甦ってきて、大きな声を出して胡麻化すことがある。
身勝手な占有意識が苛立ちの原因だったのは想像に難しくない。告白されたことを黙っていた彼に腹を立てていたのも事実だろう。あの頃は何でも自分が彼より優位な状況でないと安心できなかったのかもしれない。
そして決定的なことが起こった。それが卒業式のお別れに繋がる。
卒業式の日、彼とは学校の後で会う約束をしていた。それはこちらから誘ったのではなく、彼の方から時間を作ってほしいと言われた約束だった。恋人のいる友達はみんな同じような約束をしていたし、打ち上げのようなことをするつもりだったのだろう。
式が終わって、校庭でみんなで写真を撮ったりしている時だった。そろそろ約束した場所へ向かおうかと考えていた頃、校門のあたりが騒がしくなっていた。
人が集まっている様子に注意を向けると、そこには他所の学校の制服がちらほらいるのが見えた。違う学校同士でも付き合う子たちもいたから、自分のところの式が終わって、彼氏だか彼女だかに会いにきた人たちの一団なのだろう。
だが予測していた事態とは違って、校門からこちらへ向かってきた男子は、衆人の中から松山君を呼び出した。からかわれるように、もてはやされるように引っ張られていく彼の先には、とある女子高の制服を纏った女子がいて、引き合わされた二人は校門の外へと出て行ったのである。一瞬のうちにあがった歓声が心を凍りつかせた。
「あれ、やばくない?」
誰がそう言ったのかは思い出せないが、袖を引っ張られてよろめいたのを憶えている。
それは他校に通う彼の幼馴染で、わざわざ卒業式の日に気持ちを打ち明けにきたらしかった。後から知った話では、その子が通うのは女子高で、幼馴染だったが中学以来はほとんど会う事もなく、松山君に付き合っている相手がいるとは知らなかったのだと言う。
そのあと彼が幼馴染にどんな対応をしたかは知らない。なぜならそれ以降の彼からの連絡は全部遮断したからだ。何年か後になってから人づてに聞かされた話では、彼は幼馴染を振ったらしかった。付き合っている人がいるから、という理由で。
衝撃的だった卒業式の日の夜、日付が変わるかどうかの頃合いで、「別れよ」と短くメールを送ったのが最後だった。
彼は誰かが長く大事に想っていた人だった。それがショックだったと言えば綺麗に言い過ぎだろうか。でも、それ以上は耐えられないと思ったのである。彼とはそれっきりだ。今でも記憶の中で鮮明に存在する彼とは、現実には一度も連絡をしていないし噂も聞かない。意識的にそうしてもう随分経つ。自分はあの時の出来事にこんなにも執着している。気付かないフリをして、普通に仕事をして何気なく毎日を過ごしてきた。
それから数えれば七年が経つ。同級生はみんな二十五歳になっていて、中には結婚した友達もいるし、まだまだ仕事仕事で通す同級生もいた。彼女らとは今でも会って騒ぐ仲だが、あれっきり松山君の話題が出ることもない。みんなそんなことがあったことも忘れているのだろう。自分の想い出の暗いところに高校生のままの松山君が今でもいることは誰にも話せないことのひとつだ。
気になって仕方がない、というわけではない。ふとした折りに気持ちの中に浮かび上がってきて、ちくりと心の痛いところを刺す。松山君が刺すのではない。高校生のままの自分が刺すのだ。
◆◇◆
繰り返し刺されて、ぽっかり穴の開いた思い出に蓋をするようにため息をつくと、いつの間にやら電車を降りて駅のベンチに腰を下ろしていた。大きな花束を抱えているから目につくのだろう。通り過ぎる人たちがちらちらと視線を向けてくるのが判る。
一週間ばかり有給休暇を消化したら、その翌日からは新しい会社へ勤務することになる。思いがけず取り出してしまった苦い色の想い出に、しばらくの間とりつかれそうだ。そう思ってもう一度ため息をついた時だった。横合いから笑いを含んだ軽薄そうな声に呼びかけられた。
「お姉さんすごい花束じゃん。何かのお祝い?」
声の主は茶色い髪色をしたナンパ男だった。少し油断していると、こういう手合いに絡まれるのは隙が見えるからなのだろうか。よっぽど綺麗にしている美人の友人などは、ナンパなど一度もされたことがないと言う。どういう心構えと立ち居振る舞いがそうした軽薄さから身を守ってくれるのだろうか、未だにちっともわからない。すっくと立ちあがって相手の目は見ず、小さく詰まった声でようやく言う。
「その、もう帰るところなので……」
「じゃあさ、今からお祝い行こうよ。奢ってあげるからさ」
意見を聞く気はないらしく声の主はちぐはぐなことを言った。
年齢は同じくらいだろうが、きちんと仕事をしているのか怪しい風体の男だ。こういう連中はまず相手が女であればいいのだ。年齢や容姿は二の次なんじゃないかと最近思う。
そしてそういった手合いは、声がかけやすく断るのが下手そうな相手を嗅ぎ分けるのが各段にうまい。普段であれば躱せる自信があるが、物思いにとらわれて花束なんか抱いている状態はまずかった。スムーズに言葉が出てこない。
「ほらほら、お花持ってあげるよ」
「ちょ、ちょっと」
抗議の声もむなしく、ナンパ男は強引に花束を引き取ろうとする。あっと思ったときには、ヒールのかかとが排水溝の穴に引っかかってバランスを崩してしまった。
その時、ふっと誰かに肩を支えられて、間一髪転ばずに済んだ。それは、少し前から近くにいて様子を窺っていた男性だった。すっと寄ってきて身体を柔らかく支えてくれたので転ばずに済んだのだが、そのことよりもその男性が自分の名前を呼んだことに驚いた。
「リサ、大丈夫? 遅くなってごめんね」
にっと笑った顔に見覚えがあった。男性はナンパ男に振り返って、花束ありがとう、もう大丈夫なんで僕が預かります、と言った。
唖然としていたナンパ男は丁寧に言われて分が立ったのか、へどもどしながら去って行った。こういう時高圧的に対処すると後が面倒なことになる。ずいぶんと大人びた対応だと思ったが、それはやはり見知った人だった。
「ごめん、下の名前で呼んじゃった。大洲さん怪我してない?」
「……松山君」
怪我していないことと、ありがとうを伝えると、彼は高校生の頃と変わらない様子でちょっと困ったような顔をした。
「大きな花束を持っている人がいるなあと思って見てたら大洲さんだって気付いたんだけど、なんか声掛けられなくって」
松山君はさっきの毅然とした態度とは打って変わって、なんだかあたふたと言い訳のようなことを口にした。目を逸らしながら言葉を続けるその様子をじっと見ていた。
「そしたらナンパ? 絡まれてるみたいだったから、大洲さんが困ってたら何かできないかなと思って」
頭をバリバリと無造作にかく姿に緊張していた気持ちが少し緩む。
「ありがとう……」
もう一度そう言うと、彼は「ああ、よかった」と言ってようやくにっと笑った。
「迷惑だったらどうしようかと思った」
「そんな、本当に助かった。ありがとう」
重ねて礼を言うと彼はこそばゆいような表情になり、今度は眉間にしわを寄せて照れ隠しをした。そういえばあの頃もよくそんな表情してたな、と淡い記憶を掘り返す。
「大洲さん、仕事の帰り? 送別会か何か?」
不用意に距離を詰めないように話しているのが判った。声をかけた手前、すぐに立ち去るのも気が引けるのだろう。なんだか申し訳ない気分になった。それは、高校時代を振り返ることがある度に蓄積されていったもので、今では厚い層になって大洲リサという人間を形成している。人はそうやって大人になるのかもしれないが、だとしたらなんと重苦しいものだろう。
「再来週から新しい職場になるんだけど、その送別会で」
そっか、と彼は花束を見つめながら言った。そして咳ばらいをして、あ、と言ってもう一度咳ばらいをする。
「あの、よかったらだけど、連絡先教えてもいい?」
「え……」
「その、気が向いたら連絡してほしいなって。ほら、高校の同級だし」
「いいの?」
そう反応すると、彼は二度強くうなづいて、鞄からメモを取り出すや通話アプリのIDをそこに書き出した。
「連絡くれたら嬉しい」
そう言うと彼は「じゃあ」と言って足早に立ち去った。手の中でメモが熱くなっていた。
彼は高校の同級だし、と言った。それなら連絡してもいいだろうか。
駅舎の改札へと吸い込まれていく彼の後ろ姿は、卒業式の日校門の向こうに消えていったあの日とは違って、いつまでも人ごみに紛れてしまうことはなかった。
夜風がふわりと通り過ぎて、抱えた花束のスイセンがゆらゆらと揺れ動く。ふと、黄色のスイセンの花言葉を思い出した。
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