シャンテ

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シャンテ

 気が付くと朝は蝉の声でいっぱいだった。  昨晩干したシャツを取り込もうと、ベランダのサッシを開けたときのことだ。昨日までは啼いてなかったように思うが、実際はどうだったか。 「夏だな」  独り言が口をつく。蝉が啼きだしたら夏、というわけでもないが、そういう気分を運んでくるもののひとつなのは間違いない。  蝉と言えば小学生の時、蝉がいつから啼くか、という自由研究をやったことがある。七月に入ってすぐ、朝学校へ行く前に家の周り、川辺の公園、学校裏の山の決まった地点を回って啼き声がしないかを調べるだけの簡単なものだったが、発表の時に担任の先生に着眼点が面白いと言って褒められた。  自由研究では褒められた着眼点だったが、人生ではこれといって面白いことを見つけられないまま、気が付くと三十五歳になっていた。  結婚もせず、両親との実家暮らしはあまり褒められた環境ではない。だからと言ってこの環境を脱しようと何か努力しているわけでもない。婚期を逃した、と言うほど恋愛の経験もなかった。  蝉の啼き声にふと気が付いたように、三十五歳になってみると両親は七十近い老人になっていた。最近はこのまま結婚などせずに、世話になった両親が往生するまで近くでできる限りのことをするのも悪くない、と思い始めている。ただ、夏のこの時期は少しだけその決意が揺らいだ。  正確に言うと暮れと正月も同様だ。すなわち同級生や幼友達の帰郷に鉢合わせることが多いからである。  高校を出た後、親の金で苦労もなく入った大学を一年半で辞めた。しばらくフリーターをやって、そのうち東京にでも行って仕事を探そうなどと考えていた。近所の食品会社の社長だった親父の昔馴染みに声をかけられたのはちょうどそんな時だった。深い思慮もなく就職した会社で、今年勤続十五年目を迎えようとしていた。  田舎での仕事は程よく忙しく、特に展望もない身の上には居心地がよかった。もちろん合わずに辞めていく人もいる中、当たり障りのない言い方をすれば環境に恵まれていたのだろう。今ではパートさんを合わせて百人規模の会社で課長さんを任せられている。席次で言えば、社長、専務、工場長、副工場長に次ぐ五番目であるからなかなかの出世と言えよう。  だが給料はそんなによくはない。所帯なしの実家暮らしだから好き勝手に暮らせているが、都会に出て行った同年輩の連中に比べれば、ささやかなものと言わざるをえない。夏はそんな物思いを運んでくる季節である。  物思いの間に、取り込んだシャツに袖を通した。出社の支度を済ませて階下の台所に降りると母親が弁当を用意してくれている。ありがたい反面、こうした甘え方をいつまでしていていいものやらと心苦しくもある。 「母さん、今日は社長のお伴で遅くなるから」  弁当の包みを捧げ持って言うと、いつのまにか年老いた母は達者な口調で「正蔵さんによろしく言っといて」と言った。  正蔵さんは社長の名前だ。最近は地方でもそんなことないが、昔は田舎ならではの付き合いが相当あった。自分たちの両親世代は、当代と比べて驚くほど地域で横のつながりがある。子供だったから隣の家との垣根が低いのだと錯覚していたが、時代とともに各々の家を囲う壁は、どんどん高くなっているようだ。隣の家の人の名前くらいは判るが、一軒向こうは十年ほど前に建て替わってからというもの、どういった人が住んでいるのか細かいことは知らない。そんな感じだ。  車庫の扉を開いて車を出すと、車内の時計は八時二分を示していた。その数字にふと思い出すことがある。蝉の啼き出すころを調べていた時、川辺の公園に回ると必ず公園の時計が八時二分だった。それは偶然ではなく、作為的にその時間に公園へ行くようにしていたためである。  川辺には当時新しく造成された宅地があって、次々と新築住戸が建った。隣の市のベッドタウンとして注目され始めた頃で、都会からどんどん人が移ってきたことから、学校にもたびたび転校生がやってくるようになった。その中にとびきり可愛い女の子がいて、八時二分は引っ越してきたその子が家を出る時間だったのだ。多分、初恋だったと思う。 「……恥ずかしいことを思い出したな」  車の中は独り言を多くする。エンジンをかけてFMのボリュームをあげる。慎重に車を道路に出し、安全を確認してからアクセルを徐々に踏み込んだ。  バックミラーに遠ざかる自宅を見て、ガレージの門扉を閉め忘れたことに気付いたが、このあたりではよくあることで特に気にするようなことではない。もし気が付いたら父か母が閉めて、帰ってから軽く小言を言われるくらいだろう。  フロントガラス越しの空は憎らしいほど青い。大きな雲が山の向こうからこちらに流れてくるのが見える。むっとしている車内を冷やすためにエアコンのスイッチを入れると、かび臭い空気が吹き込んでくるのをしばらくやり過ごす。やがて冷気が流れ始め、額にかいた汗を拭うとハンドルを握りなおした。  ◇◆◇ 「今日、社長のお伴で呑みに行くんですよね。接待です?」 「なんだ行きたいなら代わってやろうか」  そう返すと狭山は片手ハンドルになって右手を激しく振り、「いやいやいや」と謝絶の意を示した。  狭山は毎年二人ずつ採用する新卒入社の若手で、今年で四年目を迎える営業部のホープだ。いつの間にかある程度の大きさになった会社では、新卒採用をするようになって六年が経つ。  大きくなった証拠に、会社は数年に一度はヒット商品を出すような企業になっていた。しかし、大々的にCMをやるような戦略は立てておらず、創業五十年の歴史の中で全国的に広告を打ったのは過去にたった一度だけ。入社して三年目のことだった。  その時起用した広告塔の知名度のおかげで、その商品は一定程度は売れたが、CMが流れなくなると売れ行きは下火になり、今では過去の栄光のひとつになっている。  最近のヒット商品というのは、全国規模のコンビニチェーン店のPB商品を売る戦略によるものだ。オリジナル商品は地元周辺でのローカル販売に留め、「主戦場はPB製品」と的を切り替えた社長の英断が功を奏した。  おかげで会社は軌道にのったが、地場以外でオリジナルの商品を世に送り出さなくなった。過去に一度打った商品のポスターが、今でも会社のエントランスに大事に展示されているのはそういった理由からだ。 「社長のご相伴は僕ら世代にはきついですよ。モーレツ世代ってやつでしょ?」 「モーレツってお前……」 「それに、今日のは松原さんご指名じゃないですか」 「ああ、珍しいよな」  課長職にあるからこういった仕事は稀にあるが、社長が接待相手の都合ではなく、こちらの都合を聞いて日時を決めたのは今までなかったことである。  社長案件は社長が独自に進めることが殆どなので、接待に起用されても相手先を確認したりすることはない。相手先の経歴や趣味の部分にリンクする社員をピックアップすることがだいたいなので、今回も恐らくそういった理由で選ばれたのだろうが、自分ありきでスケジュールが決められたのは、今までにないことだった。  少しの間黙って車窓に流れる風景を眺めていると、運転している狭山が鼻唄を歌い出した。知らない歌だったがボリュームを大きくしてやる。 「あ、うるさかったです?」 「いいよ、歌ってろ」  狭山は屈託のないところがいい。気に入らないことがあると、相手が誰でもあからさまに表情に出すところは頂けなかったが、変なこだわりのないところが素直に映る。こういう気持ちのいい青年は営業先でも可愛がられるものだ。彼の成績は月によっては課内でトップに立つこともあり、売上を凌がれることがしばしばある。営業部期待のエースで、今どきの若い連中には余りない、さりげない気遣いのできるところなんかがポイントなのだろう。今もハンドルを切りながら、時折こちらの様子を窺っているのが判る。 「このまま帰社でいいですか。どこか寄るなら回りますけど」 「じゃあ、川沿いの道で戻れるか?」  常時点灯しているカーナビをちらりと見て、狭山は大きく頷いた。 「この時間は川べりの方が空いてそうですからね」 「…………」  夕まづめの光線が柔らかく風景の色を薄めていた。川沿いの道は程よく空いており車は快調に走る。少しだけ車窓を下すと隙間からは夏の風と蝉の声が入ってきた。 「そう言や、たぶん今日からですよね、蝉が啼き出したの」  前を見ながら狭山が不意に言ったので、ついその横顔を凝視した。 「よく気付くな、そういうことに」 「子供のころから気になって仕方ないんですよ。蝉がいつから啼き出すのか」  そう言って狭山が笑ったので、つられて表情が笑み崩れた。 「俺も気になる性質でさ、小学生の時にいつから蝉は啼くのかって自由研究をやったことがあるよ」 「それ面白いですね。さすが課長」 「その頃調査のポイントだった公園がすぐそこで……」  狭山はおだてるのがうまい。いい気分になったせいか、つい例の初恋の話までしてしまったのは迂闊だった。  狭山は面白がって、「ちょっとそこに行ってみましょう」と言った。やめろと止めるのも聞かず、やがて件の公園が近くまで来ると、狭山は注意深くカーナビを見ながら住宅街へとハンドルを切る。  当時真新しかった住宅街も、築二十年を超えてそれなりに落ち着いた佇まいになっている。あの頃、外からやってくる人に少々敏感だったこの街の人々も、隣との敷居が高くなった今ではそれほど気にすることもないだろう。 「このあたりじゃないですか?」  そういうと狭山は一軒ずつ家々を確認するようにスピードを落とした。狭山に付き合って車の中から通り過ぎていく表札を見ていたが、最初からその家は判っている。  表札には当時と変わらず「和泉」の文字があり、少しだけどきりとした。当人はもう済んではいないはずだが、両親か兄弟かが今でも住んでいるようだ。 「憶えてないよ。もういいから行ってくれ」  興味をかきたてられている狭山に呆れてそうごまかす。彼はわざとらしく口を尖らせたが、やがてスピードを上げると川沿いの幹線道路に車を戻した。 「それでその子とはどうなったんですか」 「どうって?」 「付き合ったとか、そういう」 「……同じ中学、同じ高校へ行って、少し仲良くなった後、東京に行って芸能人になったよ」  え、と言ってハンドルを握ったまま狭山は助手席にぐりんと首を回した。 「おいおい、前を見ろ」 「いやいや課長、それ本当の話ですか?」  言われて前を向いたが、話の内容が気になって仕方ないようで狭山は身体を前後に揺らしている。中年の初恋の話にずいぶんと食いつくものだ。 「本当だ」 「誰ですか? 俺でも知ってます?」 「知ってるだろ。会社のポスターになってる」  ちょうど赤信号になって車が停まった。信号を気にしつつ、狭山はちらちらと忙しくこちらを見ながら興奮した様子で喋り続ける。 「いやむっちゃ芸能人じゃないですか」 「だからそう言ったろ」 「へえ、あの人地元だったんですね……。それでうちなんかの広告に、って課長の伝手だったり?」 「いや、地元だってんで、社長がごり押しに頼み込んだのが通ったんだよ」 「で、その後は……?」 「それっきりだよ。撮影も東京でやるから、一度大勢のいるところでちらっと話しただけだ」  狭山はまだ何か聞きたそうだったが、両手を一回大きく打ち鳴らして「はいはいここまで」と打ち切った。  しぶしぶだったが狭山は言うことを聞いて、それからは何やらぶつぶつ口の中で言いながら運転していたが、面倒なのと気恥ずかしいのとで取り合わないことにした。それに思い出しても栓のないことだ。自慢話にもなりやしない。  帰社して車庫に車を戻すと陽はとっぷりと暮れていた。工場にくっついた本社の正面に回り、エントランスに入ると受付係の女子社員が「お疲れ様です」と声をかけてよこす。いつもならもう上がっている頃合いなのに、女子社員はカウンターの中にちょこんと座っていた。こういう時はたいてい得意先の来客がまだ社内にいる。もしかしたら今日の接待の相手さんかもしれない。 「遅くまで御苦労様」  受付に軽く手を挙げてエントランスを横切ろうとしたとき、美術館のようにポスターを掲示したブース前に立つ人影を見かけた。例の全国広告のポスターで、人影は後姿から女性であることが見て取れた。  誰かのお客さんだろうか。それとも接待の相手かと思いながらも不思議と惹き付けられる背中にじっと視線を送っていると、その人が不意に振り返った。  ふと目が合って、その人は嬉し気に微笑みながら「あれ?」と言った。 「松原君じゃない?」 「和泉……」 「久々に見たけど、こんなポスターまだ残ってたんだね。美術館みたいで恥ずかしい」  はにかんで笑う様子が神々しく見えた。やはり芸能人、同じ三十五歳とは思えない肌艶、しぐさ。 「どうしてこんなところに」 「社長さんに聞いてない? またCMに使ってもらうことになったから、今度は松原君に担当してもらおうと思って指名しちゃったの。今日はその打ち合わせでしょ?」  寝耳に水とはこういうことだろう。あの狸社長、いたづらが過ぎる。黙っているなんて、仕事だろうに。 「楽しくなりそうよね」  そう言って彼女はふふっと笑った。こんなの反則だ。和泉は少女の頃と変わらない顔で覗き込んでくる。  今日の夕食はきっと味が判らないまま終わるだろう。背後で入り口の自動ドアが開き、遅れて入ってきた狭山が「あー!!」と言うのを背中越しに聞いた。e503c092-5929-46f5-921b-9f34a55cd772
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