カドゥー

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カドゥー

 列車を降りる前から、もうそこかしこに懐かしさが匂っていた。  改札の外は記憶にある風景よりも、少し色彩が濃く映る。たった七年ぶりのことなのに、郷愁というのは侮れないものだ。こういう気分を懐かしいと言うのだろう。  ここを出たのは高校三年の夏休みだった。父親の急な転勤で高校生と言う立場ではやむを得ない。受験勉強のさなかだったが、仕方なく学校も移ることになった。  引越は夏休み中のことだった。ごく一部の人にしか知らせることができなかったせいか、ここには色んな物を置いたままにしてあるような気がする。  そのままそっとしておきたい気持ちがあるのは確かだった。突然終わった高校生という人生の一部分は、あの日からずっと蓋をしたまま一度も開けていない。  だが、一本のメールがそうも言っていられなくした。そのメールを受け取ったときの、動揺のような躊躇いのような気持ちの正体を見るために、今日はるばるここまでやってきたのだ。  改札の外はすぐバスロータリーになっている。田舎町の駅だが高校の登下校に合わせて学生用のバスが増便されるので、不相応に広いロータリーが整備されている。今もロータリーに侵入してきたバスには「学バス」の表示がされていて、中には懐かしい制服たちが詰め込まれていた。 (ちょっと早かったかな)  迎えが来てくれることになっていたが、目当ての人物はまだ辺りには見当たらなかった。仕方なく手近なベンチに腰を下ろし、すっかりぬるくなったペットボトルのアイスコーヒーをひと口含む。  蝉の声が響いていた。気温はまだまだ上がるようで、時折滴るほどに汗が出る。  流れる汗を指で拭いその指先を見つめると、遠くのアスファルトが視界の中で揺らいでいた。そう言えばあの日もよく晴れていて、街の中にはコールタールの焦げた匂いが漂っていたのを思い出す。  最後の日、学校に転出の届けを提出に行った。担任と何人かの先生に挨拶をして、父親の運転する車で学校を後にした。八月の真ん中くらいのことだった。職員室のテレビでは甲子園の高校野球が映されていたのを憶えている。  毎日続く猛暑日に、さして強い部活のなかった我が校の運動部は、軒並み活動を休止していて、生徒のいない校舎はがらんとしていたように思う。  九月になって最初の日だった。転校先の学校の演台で転入の挨拶をした日の夜のことだ。塚本から携帯電話に着信があった。ふと脳裏に彼女の面影が浮かぶ。  ちょっと切れ長でつり上がった猫のような目と、背中の半分まで伸ばしたまっすぐの黒髪が印象的な塚本。  ディスプレイを眺めて、コール音が四回鳴ったところで電話に出た。 「あんた転校したとか聞いてへんで」  電話の向こうの声は落ち着いていた。一度激昂して、鎮静して、熟考があってから電話をしてきたのがよくわかる。彼女との喧嘩はいつもそんな感じだったから。  高校の一年のときに同じクラスになって、最初の席が隣だった。塚本は活発な女子で、同性にももちろん異性にも人気があった。一年のときだけでも知っている限りで五人、放課後色んな所に呼び出されては相手を撃沈させたことを知っている。  そういう感情に臆病だったあの頃、ついに何も伝えないままいい友達に徹したことを別に悔やんではいない。それはきっと誰にでもある感情で、ちょっと気になる程度のものだと思っていた。  多分、こういう感覚は互いを触発するものではないかと思う。それは相手にも伝わっていて、そうして生まれる雰囲気が、友達以上恋人未満というやつを生み出すに違いない。  塚本との間にあったのはまさにそうした雰囲気だったと思う。無論、自惚れである可能性は否めない。だからこそ、あの電話に出ることを、ほんの少し躊躇ったのだ。電話が鳴ったとき、確かにこの心は高揚したのである。  塚本からの電話はその日限りだった。どんな会話をしたのか、鮮明に憶えている。ただ、最後はやはり喧嘩別れになった。あの日からもう七年が経つ。  その塚本からメールがきたのご今年の四月だった。七年ぶりのことで、曰く、卒業アルバムあんたの分預かってるから住所を教えろ、郵送する、だった。  浮かんだのは、なんで今頃、という疑問と、自分の分の卒業アルバムが存在する不思議だった。  確かに三年の夏休み前に卒業アルバム用の写真の撮影は終わっていたように思う。料金も多分支払っていたのだろう。慌ただしい転校だったから色んなことが一旦後回しになり、そして忘れ去られてしまっていた。修正されなかった予定だけが淡々とスケジュールをこなし、卒業アルバムの形になって今も塚本の手元にあるのだ。それにしても七年もよく手元に置いていたものだ。ただ忘れていただけで、何かのきっかけに思い出しただけかも知れないが。  とりに行く。  メールにはそう返事をした。その後何日か分の候補日が送られてきて、今日を迎えるに至っている。先方は会うことにこだわりはないらしかった。そのことが気持ちをふわふわとさせているのは言うまでもない。  塚本とは会うのもやはり七年ぶりだ。高三の九月の電話以来、彼女の声は聞いていない。彼女はどこか変わっただろうか。自分は、どうだろうか。  ベンチに座って、どこからやって来るのか判らない塚本の姿を待っていると、バスロータリーの端に停めてあったモスグリーンの軽自動車がゆっくりと動き出し、ベンチの目の前で停止した。訝しんで見ていると、助手席側の車窓が静かに下りて、サングラスをかけた運転手の姿が見えてきた。 「それ、手土産?」  塚本の声をしたサングラス女が言った。弾かれたように背もたれから身体を起こす。まさか車で来るとは思わなかった。膝の上に和菓子屋の紙袋を乗せていたので、それを指して言ったのだろう。 「寅屋のドラ焼きや」 「……まあ合格かな」  それを片手に車に近づく。塚本は助手席に乗せていたバッグをひょいと後部座席に投げ込んだ。乗り、と言うことなのだろうと諒解してドアに手をかける。小さな車体に身体を押し込むと、車内はひんやりとよく冷房が効いていた。カーラジオからはボサノヴァだかフレンチポップだか、聴いたことのない音楽が流れている。 「これ、買うたの?」 「お母さんの借りてきたん」  ああお母さん、と答えてシートベルトを締める。フロントガラスを黙ったまま眺めていると、やがて車は走り出した。  どこへ行くのだろう。そう思って隣に目をやったが、塚本は真剣な様子で運転に集中している。運転に慣れているという雰囲気ではなかったので、話しかけるのはよしておくことにした。  黙って身を任せているうにち車は国道に出て、どうやら山の方に向かうようである。目の前に山が連なってさながら壁のように見える。  つい七年前までは毎日当たり前に見ていた景色だったが、久し振りに目にする光景は懐かしい気持ちだけを連れてきた。山が思い出より高く、緑が濃いことにほんの少し驚きながら、ただその景色を見ていた。  やがて道幅は狭くなり、右に左に蛇行し始めた。徐々につく傾斜に軽自動車の非力なトルクがうんうん唸る。そのうち景色が鬱蒼としてきたが、塚本はお構いなく坂道に車を挑ませた。くねくねと山道を登っところに、ニ、三台の車が停まるだけの駐車場に辿り着く。どうやらここが目的地らしい。  どうするのかと様子を伺っていると塚本はシートベルトを解いて車を降りた。それに従って助手席から出ると、もう歩きだしている彼女の後を追う。なんだかそれは懐かしい光景だった。塚本はいつも言葉が足りず、こちらがその行動を予測しなければいけない。そのことを思い出して、当時からも自分は彼女にかなわないのだったということを思い知る。  景色のよく見える展望所の欄干に並んだとき、遠くを見たまま塚本が口を開いた。 「いま何しとるん」 「普通に会社員、塚本は?」 「うちも普通に会社員」  ぷっと同時に二人で笑った。何も特別なことなどない。当時、特別だったそれぞれの人生は、なんのことはない普通の色に染まっていた。そのことを寂しく思う気持ちがあるのは、身体の中に青春の面影が今も残っているからなのかもしれない。  そのままどれくらいそうしていただろうか。景色の右端に五両編成の電車が消えたとき、不意に似合わない小さな声を彼女が出した。 「今日会うたら言おうと思てたことがあんねんけど、聴いてくれる」  塚本はそう言うと、景色を背中にゆっくりと向き直った。その表情には動揺だとか躊躇いだとか、彼女には相応しくないものがないまぜになっていた。  決心を行動に示すときが来たのを感じていた。塚本にそれを言わせてはならない。心のなかには二つの希望があった。自惚れであって欲しいと願う畏れと、同じ気持ちであって欲しいと思うすがる様な請いだ。 「塚本、先に僕に言わせて」  彼女の目が潤むのを、締め付けられる心を通して見ていた。うまく、この気持ちを伝えられるといい。  強く吹いた風が、この時だけ夏の絡みつくような空気を気温ごと追い払っていった。二人の間にあった音という音が、このとき世界から消え去ったのだった。
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