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レグリス(1)
帰り道はいつも空しい。街明かりの中に影を引きずり、賑やかさに背を向けて一人住まいへと歩く。これは空しいと言うよりも寂しいが正解かもしれない。
バスに乗れば五分ちょっとの道を、のろのろと徒歩で歩く。少し背の高いヒールに女性誌のトレンドを参考にした服を着て、そんな自分が商店のガラス窓に映るのを目にすると一層徒労感は増した。
(いったい何をやってんやろ)
何のために生きているのか。何のためにこんな格好をして出かけるのか。思えば空しいのは帰り道だけではない。出かける前だって十分に空しかった。
歩く先にコンビニの明かりが見えてきた。明日の朝食べるものを調達して、お酒も何か買おう。そう言えばもうすぐコンディショナーが切れそうだった。ドラッグストアは遠回りだし、ちょっと高いがあそこでついでに買ってしまおう……。
…………。
この間の、ユリの結婚式は楽しかった。昔の仲間と久々に会って、披露宴が終わった後も夜中までしゃべり続けた。主役のユリは、別のグループに取られてしまって、披露宴の時も合わせて五分くらいしか時間が取れなかったが、そういうものだろう。高校時代の友人と言うのは、だいたいの人にとって人生のほんの一頁でしかない。ふと、あの日のことがよぎって、余計に淋しさが募った。
そうだ、明日は朝が早いのだった。会社ではなく、新幹線の乗り場で後輩と合流して名古屋の商談先まで直行しなくてはならない。腕時計に視線を落とせば時間はもう少しで二十二時になるところだった。思いがけずため息が出る。部屋に戻って化粧を落としてシャワーを浴びる。皺にならないように一張羅にスチームをかけて、ベッドに入る頃には日付が変わっているだろう。四時間ほども寝られれば御の字だと思う。
頭の中でごちゃごちゃと考えているうちにコンビニは目の前だった。自動ドアをくぐると来店者を告げるチャイムが鳴る。無意識にメロディーを口ずさんで顔を上げると、目の前に同じくらいの年頃の男性が、驚きを表情に貼り付けて立ちふさがっていた。出会い頭だったからお互いに通行を邪魔する格好になったのだが、先方は耳についたチャイムを口ずさむ女に不審を憶えたのかもしれない。急に恥ずかしくなって「すみません」と言って男性と商品棚の隙間をすり抜ける。
「あの、もしかして夙川……?」
「え?」
名前を言い当てられて反射的に振りむいた。
「おお、やっぱりサエや。間違うてたらどうしようか思た」
「け、あ、住吉……?」
「苗字呼びて、まあそらそうか」
つい名前で呼びそうになって踏みとどまった。取り繕うように話すべき言葉が後先になる。
「ひ、久しぶり!」
「おう。たぶん八、九年ぶり、くらい?」
地元でも何でもない一人住まいの街で、約十年ぶりに再会したのは、高校生の三年間を恋人として過ごした人だった。
あの頃とは姿かたちも中身もすっかり変わったと思う。十年はそれなりの長さの時間で、それは互いに公平に訪れているはずだ。こちらが変化した分だけ、向こうも変化をしているだろう。それでも互いに見間違えなかったことが不思議で少し面白かった。
「なんでこんなトコおるん」
レジでカップのコーヒーを一つずつ買って、イートインのスペースに椅子をひとつ分空けて座る。そして頭の中に浮かんだ言葉の中から、この場に一番相応しそうなものを選んだ。
彼は「ああ」と頷いて質問の意味とを理解したようだ。コンビニの店内は空いていて、今は警備員の恰好をした大学生風の青年が弁当を選んでいるのが見える。スピーカーからは合宿免許のCMが繰り返し流れていた。
「先月辞令でこっち戻って来たんよ。この辺に部屋決めたんは知り合いが住んどったからやねんけど、引っ越して来たらそいつもまた引っ越してしもて」
「へえ」
知り合いと言うのは男だろうか、女だろうか。街コンの帰り道だからか、そんなことが気になる。少し、胸の奥の方がちくちくするのは、話している相手が昔馴染みだからだろうか。
「夙川も知ってるヤツや。高校のときの、サッカー部やった立花って憶えてへんかな」
「あー憶えてるかも……。あのいつも真っ黒で頭トゲトゲの」
「そうそう、まあ今はもう普通の感じやけどな」
高校卒業と同時に東京の大学に進んだ彼とはしばらく遠距離を頑張ったが、そのうちにお互いがしんどくなってだんだんと連絡をすることが少なくなった。どちらから、という訳ではなく、東京と、地元で離れると決まった時には、本当はもう二人を繋ぐ線は細く細くなっていたのだと思う。高校の時だって、ただ一緒にいて楽しかったから付き合っていたのだ。離れればそれまでだった。
最後に会ったのは東京だった。恵比寿のナントカと言うオシャレな感じのダイニングバーで、高速バスで朝イチに着いて、約束の時間まで知らない街をうろうろした。こういう所にゴハンしに来るんだな、と対面に座る彼を勝手に遠く感じたのを憶えている。そこで別れようと切り出したのは彼ではなかった。あれが安っぽいプライドってやつだなと今はもちろん、当時ですら直後にはそう思ったものだ。
「キレイかっこしてるけどデートやったとか?」
いくつか近況報告のようなことをして、時計の長針が頂点から真下へ進むくらいの時間を過ごした頃、彼がちょっと距離を詰めて来たのを感じた。
「あ、今から会いに行くとこやったとか」
慌てて補足するように言うと、詰めた分だけ後ずさったような感じがして、少し水位のあがっていた緊張が引いていった。ふと笑いがこみ上げて、下がりがちだった視線が上がる。
「デートでもないし、付き合うてる人もおらん。うち今婚活してんの。今もその帰り。笑えるやろ」
引くかな、と思いながら観察していたが、彼は丸まっていた背中を伸ばすと「そうなんや」と小声で言った。それは十年ほどが過ぎても変わらない仕草だった。なんでも話せる相手で、だいたい何を考えているのか、どう感じるのかがわかる。わかるつもりだ。このあとはきっと握った右手を口元に当てて、もう一度「そうなんや」と言うはずだ。
そう思って眺めていると、想像をトレースして彼の右こぶしが口もとにあてられる。
「そうなんや」
彼がそうするのは、彼の中にプラスの感情が生まれるときだ。何度も何度もそうするのを見た。高校一年の冬休み、想いを伝えてくれたとき、気持ちに応える返事をしたのが、その光景に出会った最初だった。
好きやな。
たぶん、また好きになる。それは確信だった。しかし同時に「でも」と思う気持ちがある。そんな安易に形にしてはいけないと、心が逸る気持ちの肩を後ろから掴む。
「ごめん、そろそろ帰る。明日出張で早いねん」
そう言って席を立つと、彼も後を追って席を立った。視線が頭一つ分高い。住吉の表情には少し虚ろなものと、確かに察したものがあった。こちらがだいたい彼のことをわかるように、彼もこちらがだいたいわかるのだ。
十年は長い。短いようでやっぱり長い。今はまだダメだ。一度開けたプレゼントの包み紙をもとに戻すように、丁寧に慎重にそれを包みなおす。
「そうやな。もう遅いしな」
それでもやっぱり惜しむものが表情に浮かんでいる。きっと彼の目にも同じものが映っているだろう。コンビニの入り口まで並んで歩いて、そこで同時に「じゃあ」と言って別れた。来た時と同じく人の出入りを知らせるチャイムが鳴って、三秒後自動ドアが閉じるとそれは唐突に聞こえなくなった。勿体ないことをしたかな、と思ったのは家に帰って服にスチームをあてているときだった。連絡先の交換くらい提案すべきだったろうか。人生のあらゆるシーンは後悔でできている。
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