第2話 文雄

1/1
18人が本棚に入れています
本棚に追加
/16ページ

第2話 文雄

 窓際のカウンター席は、実は文雄にとって特等席だ。喫茶店では珍しくカウンター席までソファ仕様なのだ。隣との間隔も広めに取られているし、眼の前に充電用のコンセントが設置されているのも有り難い。全国展開しているチェーン店ではあるが、店によって個性が違うのも楽しい。文雄が働いていた頃、よく店長のお使いで他の店舗に行くのも楽しみのひとつだった。  程よく周りから切り離された時間に身を委ねると、文雄はやっと人心地のついた気分になった。  文雄は喫茶店を開きたいという夢を断ち、父親の跡を継ぐべく今の会社に入った。  中瀬電機は、文雄の祖父が前後に立ち上げた電動工具をはじめとするモーター類の開発販売や修理を行う会社だ。祖父の電動工具への情熱が実を結び、今ではちょっとした機械好きなら知らない人はいないほど名の知れた会社になった。二代目である文雄の父は、技術はそこそこの知識だが経営者としての才覚は祖父以上で、扱う商品やサービスを拡大して売上を伸ばした。  中瀬電機に他人の手を入れたくない、父の願いは三代目となる文雄に託された。地元の安定した企業であれと、社員の家族や地域住民からも文雄は期待された。  期待は、文雄にそれを置いていけ、と言った。  父が文雄の社会経験を伸ばす為に、喫茶店でバイトすることを黙認していたのだというのは、文雄にも充分解っていたことだった。  でも、いつか。自分の店を開けたら。  そんな事をちらっと漏らした時、常連の年配客から一冊の本を貰った。B6判の喫茶店経営読本は文雄の夢への扉になった。  けれど。  その扉は開かれないことを、文雄本人が一番良く分かっていた。 「お待たせしました」  何も頼んでいないが店長が気を利かせてくれたのだろう、先にコーヒーを出してくれた。運んできたのは見かけない顔だ。新しいスタッフだろうか。 「ありがとう」 彼に一言告げると、 「いつものセットでいいですか?と、店長が」 と言葉少なに注文の確認が返ってきた。まだ少し愛想が足りないな、文雄は彼を見てそんなことを思った。 「はい、それでお願いしますと伝えて下さい」 「かしこまりました」  彼はこの混み合っている店内にも慌てるそぶりを見せずに飄々とキッチンへ戻っていく。 (まあ案外、使えるようになるかもね)  文雄はこれから会社に向かうための士気を上げようと、コーヒーに何も加えずひと口飲んだ。  この喫茶店では、どの店舗でも同じクオリティのコーヒーを出せるようマニュアルが決まっている。個人経営をしたかった文雄にとってチェーン店のそこは受け入れ難かったが、経営には必要なことなんだと言うのも、特に今となってはよく理解できる。  美味しいことに変わりはないし。ソーサーに載せられた小袋をびり、と破いた。  コーヒーに必ず付いてくる小袋に入った豆菓子は、このチェーン店のちょっとした名物だ。ほんのり塩気の効いた豆菓子を食べてコーヒーを飲むと、いつも少しだけご褒美を貰った気持ちになるのだ。たぶん、この店に来る人は誰もが。  そんなことを想像して、文雄は胸の中でくすりと笑った。心が少し軽くなった気がした。  再び彼が運んできてくれたモーニングセットを前に、文雄の気持ちはだいぶ上がった。これを食べたら今日も一日頑張ろう。
/16ページ

最初のコメントを投稿しよう!